2006年08月03日
長尾和典展
一分の隙もなく支持体に貼り込まれ、平滑に整えられた和紙の上を、かぼそい線の集積が覆う。線はミリ単位よりもさらに細く、ほとんど糸状である。
この線の表情が、とても豊かだ。もつれ、ひきつれ、くもの巣のように絡んだかと思うと、息の長いストロークでたおやかに画面を横断する。明確な図像は持たないままに、不定形のイメージが画面のところどころで紡ぎ出される。淡く消え入りそうな線から、浮き出るほど濃くはっきりした線まで、トーンも幅広い。
あまりに繊細な線の集積は、一見したところ鉛筆で描いたドローイングにしか見えないが、実はすべて筆に墨で描いているというのだから驚きである。
また、支持体の作り方にも特別な工夫が見られる。
薄手の和紙を何枚か張り合わせることによって、上に張られた和紙が透過層の役目を果たし、下層の和紙に描かれた線が、まるでカーボン紙越しに覗く景色のようにうっすらと透けて見えるようになっているのだ。透けた線は、和紙の奥にも空間があることを感じさせる。
部分的に上層の和紙がちぎられ、あるいはコラージュのように新たな和紙が貼り付けられ、ますます複層化してゆく画面を繕うように、かぼそい線が再び和紙の上に引かれてゆく。
詩情の色濃い作品を目の前にすると、言葉の選び方に慎重にならざるを得ない。
ここで表現されているものは、オートマティズムによる作者の心象風景なのだろうか。
具体的な描写が排されているとはいえ、形象のひとつひとつを見つめれば、それらしい動物や人間のかたちを読み取れなくもない。おまけに、目鼻を描きこまれた顔のようなものまで発見できる。
しかし、オートマティズムという方法論、心象風景というレッテルでは、長尾の作品をうまく探り当てられた感じがしない。確かにオートマティズムは、作者の内面から湧き上がってくるイメージを出来るだけ損なわずに発露させるための最良の手段のひとつではあるかもしれないが、紙やキャンバス、画材といった物理的な制約を受け、画面にイメージを定着した時点で、生き生きとしていたイメージを凡庸な痕跡に貶めてしまう危険もはらんでいるのだ。
一方で、長尾の作品に出没する抽象的な線のもつれは、何かしらの形象を連想させつつも、具体的な事物がそこに投影されるのをぎりぎりのところで逸らし、交わすことによって、言葉では捉え難いイメージをネガとして立ち上げることに成功している。
和紙の貼り重ねも、単なる視覚的な効果に終わっていない。下層に織り込まれた線はイメージの痕跡ではなく、むしろイメージの消滅と生成を同時に感じさせ、和紙の中で静かに息づき、画面を充実させている。
今年で3回目になるという閑々居での個展は、 画廊に入って左手の壁に100号サイズの大作2点、右手の壁に小品群を並べるという展示構成だった。
大画面でも、かぼそい線の魅力は潰れていない。むしろ広い画面のなかで、線条のもつれは薄められた墨色の中へと雲散霧消し、より純粋なエネルギーに還元されているかのようだ。
作品にはタイトルが付けられていない。キャプションには便宜上の番号が表記されているのみである。あくまで言葉を拒み、イメージを大切にする作家ならではの選択である。
せめてもの解釈が許されるなら、途切れながらも線を引き、和紙を重ねることは、脆く壊れやすいイメージの世界を固定化から救済するための所作であると受け取りたい。(中島水緒)
長尾和典展
アートギャラリー閑々居 (2006年7月20日?8月2日)
http://www.venus.sannet.ne.jp/kakosan/