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2006年08月14日
ヨロヨロン 束芋

映像作品というのを筆者はどうも好きになれない。いつ終わるのか定かでない退屈な画面や観念的な叙述がだらだらと続く。もちろん例外はあるわけで、束芋の作品もそうした数少ない例外の1つ。見る側の時間的に耐えられる限界を計算に入れ、巧みなストーリー展開で最後まで飽きることなく見させる。その束芋の新作を中心とした展覧会「ヨロヨロン」が、8月27日まで東京・品川の原美術館で開催されている↓
http://www.haramuseum.or.jp/generalTop.html

新作は「公衆便女」「真夜中の海」「ギニョラマ」の3点。束芋はこれまでにも「にっぽんの台所」「にっぽんの湯屋(男湯)」「にっぽんの通勤快速」など、「にっぽん」の日常が詰め込まれた場を舞台として物語を展開してきた。もっとも物語といってもテレビドラマのように、ある結末を求めてストーリーが直線的に進展するのではなく、日常的な時の流れの中に唐突に不条理ともいえる事象が混入し、しかしそれも含めてさらに日常的時が流れるといった錯綜した構造を持っている。「公衆便女」も「にっぽんの」という言葉は消えても、そうした流れの延長上に位置づけられるだろう。

基本的に男女が分けられている公衆トイレは、「湯屋」とともにそれぞれの性にとって原則的には不可触の領域。とりわけ男にとって「男性用トイレより汚いと思う」(実際に女性から聞いた話)という女性用トイレ、その個室の中にある複数の個室といった二重の密室状態での出来事は謎としか言いようがない。束芋の「公衆便女」に登場するような、盗撮男の手になるカメラの眼を持った蛾にでもならなければ。この作品はその蛾の眼で撮られたものと言ってよいだろう。つわりが始まったのか、口を押さえて裸足で個室に駆け込む女性は鼻から子供を産み、産んだ子供を亀に乗せてトイレに流す。手首から流れる血をトイレットペーパーで巻いて押さえ鏡の前に立つ女性。鏡に映るその女性は本人である女性に向かってハンマーを打ち降ろす。ランドセルを降ろし半裸になった小学生の体は明らかに成熟した女性のもの。事実、鏡の中には成人女性の姿が。尋常ならざる光景としか見えない。しかし本当に「尋常ならざる光景」と言えるのだろうか?

「真夜中の海」は高所恐怖症気味の筆者にとって、いささか緊張する作品であった。1階の床がスクリーンとなり、そこに映された映像を2階のバルコニーから見るというもの。全体は真っ暗で、白抜きになったような波頭が音響とともに寄せては返し、寄せては返しを繰り返す。実際に断崖絶壁の上に立って夜の海を眺めているような気分になる。波の映像とともに、時折水面下の模様も映される。しかし良く見れば、それは水中や水底の光景ではなく人の内臓。そこを髪の毛の塊が擦り抜け、さらには水面の波間にも姿を現す。高所恐怖症の私は緊張すると書いたが、いつの間にか引き込まれるように見入ってしまっている自分に気付く。不気味でもあるが神秘的でもある光景。束芋によれば、この作品での「髪の毛」とは「神の気」でもあるという。水中が体内ならば水面は皮膚。そこを往還する「髪の毛」すなわち「神の気」。とすれば「神の気」とは人の生の営みを司るもの。それは一体何であるのか?その問いに対する答は観客に委ねられるのだろうが、それを考える以前に、作品の波は観客に早く身を翻して飛び込むことを誘っているようでもあった。

この展覧会を実は2回見た。最初に見た時はそうとは知らず昼間に訪れてしまったのだ。「ギニョラマ」という作品は水曜日の日没以後にしか見ることは出来ない。この作品が映されるスクリーンは美術館の外に設置されており、それを美術館の内部から見る仕組みになっているのだ。だから明るい日中はほとんど見えない。そのため再度見に行くことにした。「ギニョラマ」とはフランス語のギニョール(指人形)から付けられたタイトルだそうだ。しかしこの「ギニョラマ」はそんな可愛らしいものではない。印を結ぶかように様々な形に蠢く人の指。それは人体から切り離された一個の生命体のようでもある。いや青い血管が浮き出し、赤や緋色が斑になった姿は、まるで人の意志とは無関係に活動を続ける内臓器官だ。見ようによってはおぞましくも生々しい映像。しかし観客はじっと凝視している。見てはいけないものこそが、見ることの欲望を喚起するとうことの証左でもあるかのように。

今回発表された3つの新作。筆者はこれらの作品を別々の独立した3作品ではなく、それぞに連関を持っているのではないかと考えた。「公衆便女」に見る尋常ならざる日常、「真夜中の海」に漂う精神性、「ギニョラマ」が表す制御し得ない命の蠢き。どの作品が上位でどの作品が下位というのでもない。それぞれがそれぞれを含んで成立している。その境界にある薄い皮膜を、その皮膜を束芋が剥がし、傷が癒える時のようにそれぞれを癒着させているのではないだろうか。最後に展覧会自体のタイトル「ヨロヨロン」であるが、これについて束芋自身が美しい筆文字で図録に記している。図録自体にも楽しい仕掛けがあるので購入をお奨めしたい。(提髪 明男)