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2006年10月09日
仏像 一木(いちぼく)にこめられた祈り

ところで、、、仏像ってなんなんだ?
ホントにタマーーーにだけど、展覧会に展示されている仏像に向かって手を合わせているひとを見かけることがある。そんな光景に出くわすたびに俺は混乱し、そして「そーいやコレって、拝むものだったんだっけ?」なんて気付いたりもする。
でもホントにそーなのか? 
現在東京国立博物館にて開催中の「仏像 一木(いちぼく)にこめられた祈り」展。芸術の秋真っ盛りの上野の山に引っぱり出されて華々しくライトアップを施されたこれら百四十余躯のホトケサマたちは、薄暗いお寺の御堂に安置されて拝まれているホトケサマたちと、ホントに同じものなのか?
確かに、仏像は面白い。
しかし自分がいったいこれらの仏像の何に対して「面白い」と思っているのか分析すると、チト事態は複雑化してくる。

会場の順路に沿って見てみよう。
まず入ってすぐは「第1章:檀像の世界」。カヤで造られた比較的小振りな仏像が居並ぶのだが、、、い、いきなりなんなんだ、この精緻な造りは! 千年以上も前に造られた菩薩立像ばかりなのだが、う?む、やはりこのカンドーは、「工芸作品」としての完成度の高さに由来しているのだろうか。
いやいやそうとばかりも言い切れないゾ。だいたいナンナンダ、この頭がいっぱい付いた帽子(?)は。。。面白すぎるぞ! 立っている台とかもよく見るといちいち凝っていて面白い。やはり俺はこんなヘンテコなものを生み出した古人の想像力にこそ感動しているのではないだろうか?
イヤイヤやっぱりコレはそーゆー「芸術」なものに対する感動というよりも、もっともっと崇高な気持ちに因っているのかもしれない。俺のなかのどこかに眠っている(ハズ)の篤い信仰心が、ホトケサマの尊い御姿にカンドーしているんじゃないだろーか! 照明の効果に騙されてるだけかもしれないけど…(ちなみに会場を訪れた際は、忘れず展示ケースの裏側にも廻ってみよう。そこには巧みなライティングによって演出されたホトケサマの尊い御影が落ちているから)。

「第2章:一本彫の世紀」になると、大振りな仏像も出現してくる。一木彫は木に神や霊が宿るとされてきた日本古来からの信仰に因っているとのことだが、確かに木自体の魅力も捨てがたい。年月を経てきた様々な木たちの表情を間近で観察してみるといろいろな表情が発見できて、それだけでも見ていて飽きない。たとえそこに霊が宿っていようといまいとも。
そう、木もそうだが、俺がカンドーしてしまうのは人の手に拠ったものだけとは限らない。例えば長い年月を経てきたことよってホトケサマたちに付いた「傷」だ。虫喰いの穴や、欠損した身躯。それらに思わず魅せられてしまうのは、そうした「傷」こそがこれらの仏像が造られてから今日に到るまでの長く遠い歳月を思い起こさせるからだろうか? そしてそんな気の遠くなるのような(だって千年だぜ?)期間、ホトケサマを大事に守ってきた人間たちの労力やこころを想って、胸が熱くなるのか?
イヤイヤそんな御託を唱えないでも、ただ単純に「傷」たちがカッコイイというのもある。顔面が削れてなくなってしまいそうになっている観音菩薩など、暴力的なまでのエロティシズムを思わず感じてしまったりして、なんというか、、、イカしてる!

「第3章:鉈彫」になると、表面にノミ目の残った異様なホトケサマたちが出現する。さては時代が下ってきて「作家性」とやらが頭を擡げてきたのかと思いきや、これは霊木から次第に仏像が現れてくるプロセスを示しているのだと言う。イヤハヤなんとも動画的な表現じゃないか。

「第4章:円空と木喰」では、ついに仏像を造った「作者」の名前が登場。こんどこそ「作家性」の目覚めだろっ!と意気込むイヤな現代人の思惑に沿うように、最初に出現する円空の仏像はそれまでの造形からは一変、なんとも個性的なかたちをしている。
しかしこのキミワルイ感じはナンナンダ? なんだか、、、呪われそうな感じさえする(ホトケサマなのに、、、)。「安全」な博物館のなかで見ているからいいようなものの、違うシチュエーション(人知れぬ山奥とか?)で見たのならば、これはそーとーコワイかもしれない。
プリミティブな造形から来るキミワルサというのも確かにある。しかしこの独特のゴツゴツした作風は、決して「作家性」を求めて生み出されたものではないのだろう。オリジナリティを得るためだけに編み出された「個性」なんかではなく、「祈り」をかたちにすることの追求とその必然の結果生まれた「独自性」だからこそ、こんなにも説得力を持って「呪力」を感じてしまうのかもしれない(つまり「一木にこめられた祈り」によって、ということか。なんかタイトルに騙されてない、俺?)。
そんなコワイ円空仏に対して木喰の仏像は、いきなり肩の力が抜け落ちてしまうほど親しみのある作風。木喰は訪れた土地の木を使って仏像を彫り上げたそうだが、円空仏との印象の違いは作家性の違いというよりも「祈り」の種類の違いなのかもしれない。しかし木喰の仏像はここではナントモ「場違い」だ。彼らの「居場所」はやはり博物館の展示会場ではないだろう。丸みを帯びた造形のホトケサマたちも、慣れない場に無理矢理引っ張り出されて困ってるみたいだった。

さて以上、ざっと会場を一巡してみたわけだが、、、
結局、仏像ってなんなんだろう???(水野 亮)


「仏像 一木にこめられた祈り」
東京国立博物館 平成館(2006年10月3日?12月3日)
http://www.tnm.jp/