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2006年10月18日
「夢のなかの自然 昭和初期のシュルレアリスムから現代の絵画へ」展

近年、日本のシュルレアリスムの再考が進んでいる。群馬県立館林美術館で開催中の「夢のなかの自然」展は、「自然」あるいは「風景」をキーワードに、フランスのシュルレアリスムから影響を受けた昭和初期の画家たちの作品を主にセレクトした展覧会だ。出品作家には、福沢一郎、古賀春江、三岸好太郎、北脇昇など、日本のシュルレアリスムを語る上で欠かせない面子のほか、モダンな造形感覚を前面に出した版画家の加藤太郎、実験写真を撮り続けた中山岩太らの名前が並ぶ。作品総数こそ66点と少なめだが、いわゆる「シュール派」の括りには収まりきらない幅広い視点がこの展覧会の魅力だろう。

展覧会は二部構成。第一部では、昭和初期の作家たちの作品が絵画?版画?写真の順で紹介される。第二部では趣向が凝らされ、真島直子、伊藤存、平町公、近藤正勝、中川トラヲといった5人の現代作家が登場する。彼らをシュルレアリスムの系譜に置くのではなく、あくまで現代絵画における「不条理なる風景」の表現者として捉えているところがポイントだ。昭和と現代の対比は、双方における「自然」の解釈の違いを浮かび上がらせている。「自然」にせよ「風景」にせよ、現代において表現の基礎となる「現実」は、フランスのシュルレアリスムを複製図版や書籍を通じて受容していたかつての画家たち以上に意味が崩壊・拡散しているようだ。
途中に設けられた参考資料コーナーでは、大正?昭和初期のグラフ雑誌、科学雑誌、図鑑、ダリやエルンストの複製図版が展示され、当時の画家たちの視覚体験に影響を与えたものをより具体的に検証する試みが見られる。資料展示と作品を見比べながら画家たちの造形の元ネタを探すのも、この展覧会の楽しみ方のひとつだ。理系の雑誌・書籍に出てくる生物の図解などは特にユニークで、その図式化された奇妙な形態がシュルレアリスムに反応した画家たちの心を捉えたとしても十分に頷ける話である。

昭和の絵画を集めたセクションでは、描かれた「風景」や「自然」をイメージ別に分類し、展示の流れに何らかの物語を与えているようなフシが見られる。
はじまりは、海女らしき人物が海中に漂う古賀春江の《白い貝殻》。川口軌外の《貝殻》、三岸好太郎の《海と斜光》など海のイメージに関する作品がつづく。そして杉全直や伊藤久三郎など、茫漠とした空間や広大な土地を描いたものが登場し、福沢一郎の《花(風景)》、寺田政明の《夜(眠れる丘)》に代表されるような、植物が繁茂するイメージや、正体不明の抽象的な形態が空間を占める作品に移り変わる。万物の起源である海から地上へ上がって、やがてものが生まれいづるという風に、ここには自己再生的な物語を読み取れなくもない。それは同時に、図版から引用した同じようなイメージを延々と繰り返す、日本のシュルレアリスムの閉塞的な状況をほのめかしているようでもある。

一方、現代の画家たちはどうだろうか。
個性も世代もバラバラの5人だが、偶然にも、都会離れした山岳の風景を画面に取り込んだものが目立つ。日常と地続きにある風景より、仰々しいくらいの「自然」のイメージが求められているということか。確かに、インターネットをはじめメディアが発達した現代では、自分がいるところから遠く離れた場所にある大自然の画像を得ることも実に簡単だ。選ばれた5人のうちには、そういったヴァーチャルな視覚体験を積極的に受け入れ、制作に活用している画家が何人か見られる。
例えば、キャンバスを刺繍糸で縫う伊藤存。画面にあらわれるのは犬や虎、人の顔といったモチーフだが、その輪郭線をなぞる刺繍のステッチは、脱線して河川、木立、山並みのラインに繋がっている。不規則なステッチは明滅する光の軌跡にも似て、特殊な映像感覚を観る者にもたらす。近藤正勝は、雑誌から選んだ山の写真をプロジェクターからキャンバスに投影し、その輪郭をアクリル絵具でなぞって絵画を制作する。そのほか、木の根っこ、山小屋、月の映像などを、色彩をわざとケバケバしく変換処理し、寄り集めた視覚イメージの脈絡の無さを強調している。中川トラヲの絵画にも山や森らしきイメージがポップな色彩で描かれているが、絵具のたらしこみやストローク、星型の記号などが上から重ねられることによって、ほとんどナンセンスなレベルにまで還元されている。
「描く」ことに対する衝動や自らの身体感覚を重んじているのは真島直子と平町公だろうか。真島は紙と鉛筆というシンプルな素材を使い、無数の円や丸、枝状にささくれ立った線などを、凄まじい勢いで画面に描きつけていく。手法的にはオートマティスムに近いようだ。最大のもので幅5メートル30にも及ぶ《地ごく楽》シリーズは、人間の器官が蠢くような光景を立ち上げている。平町は、縦2メートル、横40メートルもの巨大な絵巻物状の画面に、猿と兎の合戦物語を墨で描く。入り組んだ渓谷の場面は俯瞰した視点で捉えられ、細部に目を向ければあちこちで繰り広げられる合戦の奇妙キテレツな様子を楽しむことができる。展示室の壁四面にぐるりと巻物が張り巡らされるさまは今回の展示のなかでも圧巻だ。

それにしても、不条理な出来事が当たり前のように蔓延している時代のせいか、ちょっとやそっとの奇異なるイメージでは眼が驚かなくなっているのも事実である。昭和の時代と比べて格段に表現の可能性が広がっているように思えても、ありふれたイメージに対する眼の倦怠感はより深刻な問題と化しているかもしれない。それぞれに個性的な5人の画家たちだが、この人選に必然性を感じないのも、「突出した眼の持ち主」の不在をあらわしているように思える。(中島水緒)


群馬県立館林美術館 (2006年9月16日?11月26日)
http://www.gmat.gsn.ed.jp/ex/ex.html