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2006年10月19日
石内都 mother’s

会場に入って1枚の作品に釘付けになった。老女の右肩辺りを大きくクローズアップした作品である。そこには皮膚のひきつれが写されていた。それは火傷の跡。しかし、そのひきつれはまるで横糸を引き抜かれ、縦糸だけになった織物を連想させた。そして、この作品こそがこの展覧会全体を象徴しているのではなかったかと、会場を後にした時に感じた。。展覧会とは東京都写真美術館で11月5日まで開催されている「石内都  mother’s」展。昨年のベネチア・ビエンナーレの展示から、近作である「mother’s」のみをフィーチャーしたものである。

「mother’s」、すなわち「母のもの」。石内の亡くなった母の遺品を、生前に撮った母の写真とともに並べている。遺品といっても下着、口紅、靴、鬘…、すべて母親の皮膚と直に触れていた物ばかりである。石内にとっては母の「気配」を最も色濃く残している物だろう。では観客である他人のわれわれがそれらを「見る」とはどういう意味を持つのだろうか?添付されたテキストを読み、石内と彼女の母親との濃密な関係を知り、幾ばくかの「感傷」を動員して見ることは可能だ。しかし、それでは石内が投げ掛ける問題を掬い上げることは出来ない。母の「気配」という実体はもちろん実在物として存在する物ではない。それは「記憶」として脳裡に存在するだけだ。石内はそれを目に見える物として提示する。それが冒頭に記した「皮膚のひきつれ」ではないだろうか。ひきつれ、それを襞、もしくは褶曲した皮膚と呼ぶことも出来るだろう。

昨年の暮れから今年の始めにかけてハウスオブシセイドウで「永遠なる薔薇」という展覧会が開かれ、石内はそこで珍しく薔薇の写真を発表していた。薔薇の花は花弁が幾重にも畳なわれて。そして薔薇の生命は畳なわれた花弁の層の内に宿っているかのようであった。生命という不可逆な時間が、折り重なった花弁の陰に潜んでいる。「皮膚のひきつれ」のハイライト部分ではなく、刻まれたように濃い影の部分に石内の母に対する記憶が潜んでいるようにも思える。人の死を、人の肉親の死を、他人が共有することは不可能だ。しかし石内の作品は、そうしたプライヴェートな領域を超えて、記憶という時間の澱の在処がどこに潜んでいるかを示すものでもある。下着の編み込まれた布の編み目の中に、鬘の毛髪の間に、そして褶曲した皮膚の谷間に。それはまた朽ちるまでは「在り」続ける「物」と、不断に流れ続ける時間との接点でもある。(提髪 明男)

東京都写真美術館「石内都 mother’s」展↓
http://www.syabi.com/details/ishiuchi.html