2006年11月08日
黒川弘毅展
黒川弘毅の彫刻は、その制作手順からして、ブロンズという素材へのこだわりが強く伺える。
まず、砂の中にひとがたの空洞を掘り、鋳型をつくる。そこに熱してドロドロになったブロンズを流し込み、冷却を待つ。ブロンズがひとがたに固まったら、砂から掘り起こして表面をグラインダーで削る。溶解から凝固という現象的な変化を経て最終的に立ち現れるひとがたの像は、決してひとつの相に収束したという印象を与えない。かたちはあくまで、生成のただ中に存在しているように見える。
今回、コバヤシ画廊での個展に出品されたのは、ここ数年にわたって制作されている「エロース」シリーズの作品である。画廊の扉を開けると、まばゆいゴールドの光輝を放つ3体のひとがたが待ち構えていた。それぞれ異様に間延びした手足を持ち、垂直方向に伸び上がる動性をかたちの内に孕んでいる。身の丈90センチにも及ばない未熟なひとがただが、トライアングル状に向かい合って屹立するその姿は、近づく者を輪からはじき出さんばかりの張り詰めた磁場を形成している。
倒れないと分かっていても、危ういバランスでポーズをとるひとがたのそばに近寄るのは思い切りが必要だ。注意深く部屋の中央まで足を踏み入れると、隅っこにひっそり佇む4体目のひとがたが視野に入ってきた。3体のひとがたの間にみなぎる緊張感、そしてトライアングル状のシンボリックな配列が、思わぬ方向から打ち破られる。この小さな異物に気づかされた刹那、ひとがたが部屋の空気を巻き込んでゆらりと踊り出しそうな錯覚にとらわれた。かたちが空間に対して開かれるように、展示構成にも工夫が凝らされているということだろう。
それにしても、ひとがたの外観にはある種の捉え難さが付きまとう。グラインダーで表面を削ることによってブロンズの輝きは確かに高まっているが、ダイヤモンドのカットのように光の反射を美しく見せることが目的というわけではなさそうだ。削り痕には、外観をソフィスティケートさせようとする技巧上の意図は感じられない。むしろそれは、表面のあらぬ部分にハイライトをつくって光を乱反射させ、視線を混沌に落とし込み、物質と光の錯綜のなかでひとがたの外観を波立たせて見せているようにすら思える。ひとがたの捉え難さは、生成のただ中にあるものを物質において存在せしめるという、ありえないことの体現に由来しているのかもしれない。
もうひとつ、「エロース」シリーズのブロンズ像の重要なポイントは、それが何らかの屈折を経て身体性を喚起させるという点である。
例えば、表面の削りは動物が歯でかじった痕を連想させ、かたちを辿ろうとする鑑賞者の意識を自らの口蓋、つまり体内へと反転させる作用をもつ。また、ひとがたの手足は関節らしい関節を持たない未発達なヒレのようであり、背丈も中途半端である。生気のない木偶人形とは一線を画しているが、かといって親しみやすい人間らしさもない。こういったどこかおさまりのつかない特徴は、身体性を喚起させる条件として劣っているどころか、ひとがたが進化の途中にあることを予感させるだけに、より真に迫っている。(中島水緒)
コバヤシ画廊 (2006年10月23日?11月4日)
http://www.gallerykobayashi.jp/