2006年11月25日
Universes/オズヴァルド・チルトナー 森羅万象
月一のペースでアウトサイダー・アートの紹介を行っている小出由紀子事務所。11月の展示はウィーン生まれのオズヴァルド・チルトナーによる新作展だ。チルトナーが絵を描くようになったのは、精神を病んで施設に収容された1950年代以降のことである。医師にすすめられたのがきっかけのようだが、アウトサイダーたちが集う「芸術家の家」で暮らす現在でも、誰かから具体的にテーマを提示されない限り自発的に絵を描くことはないのだという。
チルトナーの描く絵はいたって簡素なものだ。画面の中央を泳ぐ微生物のような円。何をかたどっているかもわからない稚拙に捩れた線。描かれる形象はポストカードサイズの画面にひとつかせいぜいふたつ、どれもインクで線をひいたあとに赤・黄・緑など単色の水彩絵具がほどこされているだけで、自分で手数を規定しているかのような印象がある。
アウトサイダー・アートと聞くと、止むに止まれぬ衝動や霊媒的な資質が全開で放出された、エナジーの充満する作品を思い浮かべる人も多いかもしれないが、チルトナーの絵はその真逆を行く。これほど能動性の欠如した絵も珍しい。あまりに主張が少ない描写なので、画面の余白が広々と見えてしまうほどだ。何か表現したいことがあったというよりは、自分からは何もするつもりのない人間が最低限の気力を紙の上に絞り落としただけ、といった感じである。
色彩や線を純化させるミニマリストと評されることもあるようだが、チルトナーのミニマリズムが絵を描くときのふるまい、外界との関係性にまで及んでしまっていることに気をつけなければならない。それでもチルトナーの色彩が芽吹いたばかりの植物のような唯一無二の鮮やかさを放つのは、一体どういうわけなのだろうか。
しばしばアウトサイダーたちは、生産された「もの」自体よりも「行為」を重視されることがある。描かれたのが上等な麻布のキャンバスだろうと修復困難な紙の切れ端だろうと、衝動の源にあるものは変わらないというわけだ。とはいえ、アウトサイダーたちの走り書きや小サイズの絵を見たら、さらなる強度を見たいと願うのが鑑賞者の欲である。こうした強度を求める視線は、アウトサイダーたちの大量生産や画面を覆いつくす増殖のイメージ、あるいは大画面の作品へと向けられやすいかもしれない。私たちはアウトサイダーたちの行為に、常人には計り知れないエナジーを期待しすぎてしまっている。
場所の都合上、数点の小品しか展示できない小出由紀子事務所だが、チルトナーの絵はわずか一滴分の行為が絞り落とされただけのポストカードでも、十二分に眼を惹きつける魅力があった。言い換えれば、一枚の絵として自律した完成度が示されていたのである。その理由はやはり、チルトナーの張り詰めるまでに徹底した消極性がぎりぎりのところで強さに転じ、ポストカードサイズの画面をひとつの小宇宙として求心的に立ち上げているからのように思われる。
このような絵を目の前にしては、鑑賞者の欲も自ずとミニマルな規模で充実してしまう。チルトナーの絵を見ると、アウトサイダーたちの生産行為が私たちにもたらすものは何なのか、考えさせられるものも多い。(中島水緒)
小出由紀子事務所 (2006年11月7日?11月17日)
http://www.yukikokoide.com/news/news.html