2006年11月26日
「浦上玉堂」展
若冲、蕭白、芦雪など辻惟雄によって「発見」され、「奇想の系譜」とされた絵師たちも、今では「奇想」でも何でもなく市民権を得ているようだ。彼らを含んだ展覧会は盛況だし、日本画専攻・油絵専攻を問わず、若い作家たちの人気も高い。しかし、これが水墨画だったらどうだろうか。「奇想」の絵師たちのように大胆な構図も、華麗な色彩もない。おそらく若い人たちの人気度は下がるであろう。それでも池大雅や与謝蕪村などの文人画ならば感情を移入することで楽しむことはできるかも知れない。これが浦上玉堂だったらどうか。渋い、渋すぎる。12月3日まで「浦上玉堂」展を開催している千葉市美術館の会場でも、観客は中高年、というよりほとんどが高齢の人たちが中心で、若い人といえば美大生とおぼしき人が本当にちらほら見受けられる状態。確かにぱっと見て面白いという作品ではない。だが、じっくりと見ていると不思議な魅力を見出すことができる。その魅力とは何か。
題材は山や森といった風景画で、これといった変化もない。だがもこもこと増殖する様な山々が妙にリズミカルな動きを見せる。そしてその山を描く筆も力強い響きを示して対象を構成して行く。石川九楊が書は「線の美」ではなく「筆蝕の美」であると指摘したが、玉堂の面白さの1つもその「筆蝕」にあるようだ。線で描かれた山水画ではなく、「筆蝕」によって結果的に紡ぎ出された山水画。だから全体を一望に眺めるだけでなく、筆跡に残された勢いや玉堂の息づかい、そうしたものを追体験するかのように辿ることで、新たな躍動感を味わうことができる。玉堂は書も能くしたが、書は時間の芸術でもある。それが絵画作品にも遺憾なく発揮されているのではないだろうか。そして玉堂描く風景には不思議な形をした空白部分が随所に見られる。これもまた画面に音楽のようなリズム感を与えている。玉堂はまた中国伝来の七弦琴の名手であったという。これはカタログでも指摘されていることだが、画面に漂うリズム感はそうしたことにも由来していることも考えられる。ともあれ、決して鑑賞する側に飛び込んで来るような作品群ではないが、解読するように、音楽に耳を傾けるように玉堂の絵に対すれば、じんわりと妙味が伝わって来ることは確かなようだ。(提髪明男)
千葉市美術館↓
http://www.ccma-net.jp/