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2006年12月20日
彫刻なるもの―川島清・土谷武・若林奮の作品から

久しぶりにベーシックな問題を孕んだ展覧会を見た。いわき市立美術館で行われていた「彫刻なるもの─川島清・土谷武・若林奮の作品から」である↓
http://www.city.iwaki.fukushima.jp/cgi-bin/odb-get.exe?WIT_template=AC020000&Cc=7d6b090a322829f
絵画を語る言葉に比べ、彫刻を語る言葉は圧倒的に少ない。それぞれの作家の数の違いにもよるのだろうが、絵画が基本的に矩形の支持体に絵筆で絵具を乗せるという共通項を持っているのに対し、現代の彫刻は素材や技法が多岐に渡っているというのも要因の1つではないだろうか。従って個々の作品から演繹的に「彫刻なるもの」をめぐる言葉を探し当てることも手段となる。さて、ではここに展示された「彫刻なるもの」はどんなものであろうか。

会場に足を踏み入れて先ず圧倒されたのは若林奮の「大気中の緑色に属するものⅠ」。1982年の作品だが私にとっては初見の作品。400×474cmという巨大なもの。正方形に敷き詰められた鉛の板の上に、これも鉛に覆われた円柱、直方体、三角錐、立方体といった64個の幾何学的な造形物が置かれている。ただ1つ「振動尺」だけは鉛に覆われず、白く塗られた木肌と鉄の表面を露わにしている。全体を構成している造形物は敷かれた鉛の板には固定されていないのは、1種のインスタレーションであるのだろう。タイトルに「Ⅰ」とあるのは幾つかのバリエーションがある証ともいえる。だから観客は眼前にあるパターンだけでなく、そこから類推されるパターンを脳裡に描くことも可能だ。さらにいえば64個の造形物を構成素として観客が若林の提示した世界とは違う世界を想定することもできる。しかし、この鉛に覆われた決して整然とは景観はどうだろう。荒廃と見るか、構築を待っている姿と見るか。空撮された化学工場のようでもある。そこで白い木肌を見せる「振動尺」は荒廃を救う主にも、全体の構成を促す指揮者にも思える。何人かの彫刻家と話していると、「知りたいから作る」「世界を見たいから作る」といった声を聞く。とすれば、この作品は若林が探り当てた世界ではなく、世界を探る方途として生み出された世界ということになろうか。若林はその「方途」自体を観客に提示することにより、観客の側のその「方途」を問うているのかも知れない。

若林の流れを汲んでいるような印象を受けるのが川島清の作品。鉄、鉛、木材によって構成された「水量?二胴体」は72×59×705cmという長大な作品。黒々とした角材はまるで鉄骨のように堅固な表情を見せ、それらの部材がボルトなどで固定されることなく積層されている様は闇に中で不意に浮かんだ機関車にも見え、寡黙ではあるが強いエネルギーを内に秘めているようである。前記の若林の作品が方形の上に世界を構成する場を提供していたのに対し、川島の作品は横へと大きく伸長する形において、空間を切り裂くような、既にある場を大きく変容させるような力を持っている。機関車に例えたが、もう1つ例えるとすれば、獲物を待って静に雌伏する肉食獣の姿と言っても良いかもしれない。一度獲物が現れれば瞬時にその静けさが打ち破られる、その刹那のようでもある。そうした一連の作品の中にあって新作「水量?ケヤキの根」は些か相貌を異にしている。粗く面取りされたケヤキの根。積層という行為が先ず目に飛び込んだ前作に比べ、ここではいかにも彫刻らしい刻むという作業の痕跡が残されている。そのケヤキの根に埋め込まれたボルトの類、添えられた鉛の円柱。この作品では空間を切り裂いて場を変容させるというよりは、周囲の空間を作品の内側に取り込もうとする意志に満ちているようだ。まるでブラック・ホールのように見ている観客の視線も、いや体温さえもその内に誘って永遠に閉じ込めてしまおうという意志に。川島も1つの転換期の作品になるのだろうか。

若林や川島とは異なる表情を示しているのが土谷武の作品。前記2人の作品が、どちらかと言えば水平軸へと場を設けているのに対して、土谷の作品は重力を意識した垂直軸への展開を図っているようだ。軟鋼で作られた「水?循環するもの」は噴水がモチーフとされているのだろうか。円柱の先端からもこもことした形状の鉄板が四方に別れて床に届いている。重力に抗い、重力に導かれて地面に接地する。しかし水の循環という流体的な運動を敢えて無視すれば、鉄によってかろうじて重力から解き放たれた鉄の造形物と見ることもできる。軽やかに見えながら鉄としての質感は保持し、回りの大気を自らの中に通しながら堅固な構築感も垣間見せる。そんな機知に富んだ作品でもある。「虫の領域Ⅰ」は軟鋼による三角屋根のようなものが床に置かれている。タイトル通りに考えれば、その三角屋根に囲まれた空間が「虫の領域」になるのであろうか。思わず屈み込んで中を覗き込む。何だか自分が虫になってその中でくつろぎたい気分になる。しかしこれもタイトルを無視して見れば、上方に伸び上がることも敢えてせず、かといって重力に耐えかねてへたることもせず、その間で不思議な立ち位置を見せる鉄の造形。彫刻のある場、それを土谷は空間を水平軸だけで捉えるのでもなく、重力という垂直軸だけで捉えるのでもなく、両者の間で不安定に揺らぐものとしても捉えているようだ。

さて、ここで3人の共通項というものを考えてみた。そこで浮かび上がるのが素材。若林と川島は鉛を使用している。土谷は軟鋼。ともに彫刻に用いるには比較的柔らかい素材だ。ここに3人ともが旧来の堅固で不変の彫刻という概念から逃れ、フレキシブルに彫刻というものを捉えている姿勢が窺え、この展覧会の主旨、「彫刻なるもの」を考える上でも多くの示唆を与えてくれる。しかし、何故こうした展覧会が大都市の美術館では企画されないのであろうか。あるギャラリストと話していたのだが、これはと思う展覧会はほとんどが地方の美術館だね、と。
(提髪明男)