2007年01月30日
日本美術が笑う/笑い展
美術のなかにおける「笑い」という要素を考えるのに、あるいは笑いという要素を通して「美術」を考えるのに、好機となる展覧会が二つ同時に森美術館にて開催されている。
日本美術史のなかにおける「笑い」をテーマにした作品を集めた『日本美術が笑う』と、「笑い」をテーマにした現代美術の作品を集めた『笑い展』がそれだ。
二つの展覧会には「笑いと美術」というテーマ以外には特段関連性はないが、それぞれがそれぞれになかなか興味深い。
まず『日本美術が笑う』。
古墳時代の埴輪・土偶からはじまり江戸期の木喰・円空で終わるというこの展覧会、総展示数はさして多くはないものの出品作は佳品・名品揃い。初展示の作品などもあり、ちょっと得した気分にもなれる。
そして「笑い」をテーマにした作品ばかりを集めただけあって、観覧中は自然と頬の筋肉も緩みがちになる。
出品作の「笑い」の選定基準は、大まかに次の三つに分けることができる。
(1)モチーフ自体が笑顔(2)描かれた内容が喜劇的(3)画題自体は普通だがなんとなく見ていておかしみを誘うもの(1)と(2)を見ていて頬の筋肉が緩むのには誰しも合点がいく。では(3)の作品が観者の「おかしみ」を誘うとき、そこにはどういったメカニズムが働いているのか?
パターン1としては、これは(2)の場合にも当てはめることが出来るが、卓越した技量や時代を経てきたことによる作品の古色と、描かれているモチーフの卑近なイメージとのあいだの「ズレ」が、おかしみを誘う場合。若冲や蕭白といった人気の「奇想系」絵師の場合は特にワカリヤスイと思うが、当時でしかあり得ないような超絶技巧っぷりと、「現代の眼」で見たときに感じるマンガやアニメの表現にも通じる画風のポップさとのギャップが、見るものに「おかしみ」を生んでいるのだと推察できる。これらの江戸期の超絶技巧系の絵師を模した現代の画家たちが、古典的な絵柄に現代的なモチーフを混ぜるなどかーなり意図的な「笑い」の要素をその画題に選択するのは、単にこの構造を矮小化しお手軽に演出しているからに過ぎない。
パターン2としては逆に技巧的にプリミティブ(つまり稚拙)な場合。この場合も表装の物々しさや古色が作品に風格を与え、その古美術的な佇まいと素朴な画風とのギャップが「おかしみ」を生んでいるのだと推察される。技巧的な巧拙の差こそ大きいが、その「仕組み」自体はパターン1と同じだと言える。
しかしここでひとつ疑問が生じる。これらの作品が描かれた当時のひとびとは、果たして「おかしみ」を持ってこれらの絵を眺めたのだろうか? 確かに画面からは作者の遊び心やおおらかさも充分に感じ取ることができる。しかし我々がこれらの作品に「おかしみ」を感じるとき、もしその心理的な背景に前述したようなメカニズムが多少なりとも加担しているとすれば、「現代からの視線」の影響はあながち無視できるものではない。
もちろん古美術のなかに現代的な要素を見付けることは古美術を見る楽しみの一つであるし、権威と風格がこびり付いてしまった古美術を身近なものへと引き寄せる働きも果たす。しかしそれはあくまで「入り口」の問題であって、表層的なものである。
若冲や蕭白といった江戸期の超絶技巧系の絵師たちがブームになる背景には、前述したような「現代からの視線」が多分に影響していると考えられる。もちろんそれは彼らの作品に対する間口を広げる役割を果たし、新たな魅力を発見する鍵にもなっている。しかし反面、それが表層的なもので終わってしまう危険性も孕む。モチーフや技巧など形式だけを古典から剽窃した現代絵画の隆盛などはまさにその典型例だ。
「笑い」は対象を見るものの目線まで下げ、親しみを生じさせる働きを果たす。しかし「笑い」の力はそんな即物的な効用だけに限ったものでは、もちろんない。
すべてを突き抜けたような笑いや、神秘的な笑い、そして底なしの恐ろしさを感じるような笑いまで、「笑い」の種類や力は数限りない。
そういった意味では、ともすれば「笑い」の表層的な一面のみを捉えただけで終始してしまう危険性もあったこの展覧会を、土偶・埴輪の笑顔からスタートし、劉生の麗子像の微笑を経て、最後円空仏の笑みで終わるという構成の妙がうまくフォローし、「笑い」の神秘の多様な側面を垣間見せていたと言える。
会場はそのまま現代の作品を集めた『笑い展』へと続く。
照明は明るくなり、「笑い」の様相もまた一変する。
第1章は1960年代のフルクサスと日本のハイレッドセンターを扱った「前衛の笑い」。ここでの「笑い」は、時代や社会を攪拌するための道具であり武器だ。風刺に笑いが不可欠なように、既成の権威を打ち崩そうとするとき「笑い」はしばしば武器として用いられる。
時代を反映した笑いはしばしば賞味期限を有するものだが、フルクサスやハイレッドセンターの「笑い」も、現代の眼から見るといささか古色を帯びている気がするのは致し方ないのだろう。しかしここにはまだ「前衛」という言葉が有効で、攪拌すべき社会が存在した時代の空気が、歴史資料としての形でだが残されてはいる。
第2章からは1990年代以降の作品がテーマ別に並ぶ。
「小さな笑い」、「笑いの裏返し」、「逸脱する笑い」と続くのだが、「笑えない」ことに大差はない。
ではなぜ「笑えない」のか? キーはそこにある。
現代において「笑い」は身のまわりに溢れかえっていて、労せず手に入れることが出来るものである。テレビのスイッチを点ければ、WEBにアクセスすれば、あるいは街を歩けばそこいら中で目にする広告類に、手軽に消費できる「笑い」が氾濫している。高度情報化社会と大量消費の洗礼を受けた「笑い」は、極端に洗練され、たちまち相対化され、そしてその賞味期限のサイクルをどんどん加速させていく。
ある意味フルクサスやハイレッドセンターの活躍できた時代は、まだ「のどか」だったのかもしれない。
そんな状況下において「笑い」をモチーフとするアーティストのするべきことは何か? 世の中に溢れ手軽に蕩尽されていく「笑い」より、さらに強度な「笑える」作品を生み出すことなのだろうか?
この展覧会に出品されている作品を見る限り、どうやらそれは違うようだ。「笑い」の強度で戦っては、端から大量消費型の「笑い」には勝てないと決めてかかっているようにも見える。つまり同じ土俵で戦ってテレビのバラエティー番組に負けてしまっては「アート」としての作品の、そして「アーティスト」としての彼ら自身のアイデンティティが保てなくなってしまうからなのだろう。
しかしその結果、彼らにとっての最優先事項は「アーティストであるというアイデンティティの保守」という、そのただ一点に絞られることになる。自分の作品の「笑い」をいかに大量消費されていく「笑い」と差別化するか、観客はその悪戦苦闘の様ばかりを見せられる羽目になる。「笑わせる」べき対象は自ずと限定され、たとえいくらそれが洗練されていようと、やっていることは閉じられたコミュニティ内における「うちわ受け」に過ぎなくなる。
もちろんそこには60年代の作品が持っていたような社会を攪拌しようとする武器としての「笑い」も、円空仏の笑みのような神秘的な「笑い」も存在しない。あるのは「現代アートシーン」でサバイブするためだけに捻り出された矮小なアイデアだけだ。
出品作のなかには「笑い」を特定の社会的な対象に対する抵抗のための武器として用いている例も散見される。しかしそうした「社会性のある作品」にしても、笑いの質は低く、なによりもそれが「アート」である必然性が弱い。「笑い」の矛先が明確化されればされるほど、なぜそれが「アート」として美術館に展示されなければならないのかが不明瞭になる。結局それすらも自分がアートシーンでサバイブしていくための知恵なんじゃないか?と勘ぐりたくなりさえする。
しかし、そんな毒にも薬にもならないような無害な「笑い」が羅列されるなか、一人強烈にブラックな笑いをアピールしていたアーティストもいた。木村太陽だ。
人間の生理感覚を逆なでするような木村の映像作品やドローイングにおける暴力的な「笑い」は、美術館の外の世界に溢れた暴力的な笑いに慣れた身にも、決して無害には感じられなかった。それは何故か?
木村のやっていることは一見テレビのお笑いコント番組の延長にあるようにも思える。しかし彼は「ここまではやらない」と人々が無意識のうちに決めている日常の境界線を、ギリギリのところで侵犯することに実に長けているのだ。
倫理やモラルといった社会の暗黙のルールとしての境界線は、日々極めて暴力的に破られ続けている。そんな「日常」を背景に、木村はその暴力性にシンクロし、さらにそれを「笑い」の強度によって反転させようとさえする。
木村の作品の持つ「笑い」が会場内に溢れる安全な「笑い」と一線を画してるように見えるのは、多分彼が「境界線をギリギリのところで侵犯する」というそのただ一点を目的に制作をしているからなのだろう。つまり「アート」であることのアイデンティティなど、どうでもいいのだ。木村の作品のアイデンティティはその今日的な暴力性を帯びた「笑い」の強度にこそある。
もちろん木村の出品作すべてが素晴らしいわけではないし、その「笑い」もまた時が経てば賞味期限を迎えるものなのかもしれない。しかし現時点において時代のアクチュアルな「笑い」とその暴力的な強度において競おうとするその姿勢こそが、木村の作品を「アート」にし、うちわ向けの無害な「笑い」が充満した会場内において異彩を放たせているのだろう。(水野 亮)
「日本美術が笑う/笑い展」 森美術館(2007年1月27日?5月6日)
http://www.mori.art.museum/contents/smile/index.html
http://www.mori.art.museum/contents/laughter/index.html