2007年02月06日
第10回岡本太郎現代芸術賞展
今年の太郎賞展は面白い。
十年目を迎えその名称を「岡本太郎記念現代芸術大賞」から「岡本太郎現代芸術賞」にマイナーチェンジした同賞だが、それに伴いプライズも岡本太郎と岡本敏子の名を冠したものへと変えられた。
その「岡本太郎賞」と「岡本敏子賞」には、リニューアル第一弾を飾るに相応しく観るものに新鮮な驚きを与える突出した二作品が選ばれている。共に傑作である。
岡本太郎賞を受賞した大西康明の作品は、暗闇のなかに設置されたインスタレーションだ。遮光用のカーテンを手繰って暗室の中に入ると、緑色に発光した点の固まりと流線が目に飛び込んでくる。部屋の奥には茸のかさのような形でドーム状に膨張する光の粒が、手前には同一の速度で上方に伸びていく長ーーーいもやしのような光の線の集合が、それぞれ息衝くように微動している。両者はともにゆっっくり膨張/上昇し、その限界に達すると今度は穏やかに収縮/下降する。そして再び膨張/上昇、暗闇の中にひろがる遅々とした時間のなかで穏やかな運動を繰り返すその様は、なにか生き物のようでもあり、時間の流れそのものを視覚化したようでもある。
まるで異空間に踏み入ってしまったかのようなそんな錯覚さえ覚える幻惑的な光景だが、実は膨張していく光の粒は大きなビニール袋の表面に貼られた丸型のシールであり、光の流線はそのシールによってビニール袋の表面に留められたヒモである。ブラックライトに照らされることによってそれらが光を発し、ビニール袋の中の空気を出し入れすることによって有機的な動きが生まれている。
言うまでもないことだがこの作品が優れているのはその仕組みが単純だからだ。我々の日常とは全くかけ離れた異世界的な光景が、よく知っている日常的な物質と理解できる単純な仕組みによって生成されていることに気付くとき、驚きと想像力の膨張はスタートする。
この作品は「メディア・アート」というジャンルに区分けされるのだろう。以前ICCで「アート&テクノロジーの過去と未来」という日本のアート&テクノロジーの歴史を総括した展覧会を見たときにも思ったのだが、テクノロジー・アートやメディア・アートは、そのテクノロジーが目に見えなくなった瞬間から面白さを一気に減じていく。理解不能なハイ・テクノロジーによって超絶的な効果を繰り広げられても、見る側はそのテクノロジー自体を楽しむことは出来ず、想像力を拡げる余地もない。それはテクノロジーが決められた特定の効果に対する「手段」でしかなくなってしまうからだろう。つまりテクノロジーが「ひらかれて」いないのだ。
「作家の言葉」のなかで大西は「流動する空気のような目に見えない現象を単純な点や線の動きに置き換え、視覚化することで鑑賞者の思考を別世界に導くような機会をつくりたい」と述べているが、導く先の「別世界」が作者の強要する固定された世界ではなく、観る側の想像力に委ねられている点こそが、この作品が無限のイメージを持つことに成功している所以であろう。
岡本敏子賞を受賞した菱刈俊作の作品もまた「ローテク」である。
それは巨大な紙に網目状の図柄が描かれた平面作品なのだが、近寄ってみると網のように見えたものが実はマンガの女体(?)の絵の輪郭線をコラージュして繋ぎ合わせたものであることに気付く。
絵の前には簡易的な畳と机が設置されており、そこでは同じくマンガの絵の断片がスケッチブックにコラージュされた本状の作品が見られる。登場人物の名前を呼ぶ吹き出しだけを羅列したもの、断片が重なり意味不明な形状を成しているものなど、視覚的なユニークさとその無内容っぷりは平面作品と通底している。
マンガのコラージュという手法自体に目新しいものはないし、そのアイデアもとりたてて新奇なわけではない。にも関わらずこの作品が突出して見えるのは、その視覚的な強度にこそ拠っている。画面の大きさ、コラージュするマンガの選択、貼り方(微妙な破れ具合)、僅かに残る具象的なイメージ、ところどころにアクセントとして入る色味など、眼を楽しませる要素も尽きない。
平面作品としての全体像の美しさとディティールの豊穣さ、そしてその圧倒的な無内容さが、ナンセンスを通り越してそのさらに向こうにある未踏の世界をも垣間見せる。大西の作品が鑑賞者を別世界へと「導く」のだとすれば、菱刈の作品は見慣れたこの現実世界を別世界へと「変容させる」。不条理な出来事の連続で現実への立地点を揺るがす小説を読んだときのように、この日常世界が蕩けだし、まったく別の貌を顕わにするような、そんな瞬間を観るものは味わうことができる。
この二つの受賞作が注目に値するのは、それが作品単体で優れているからである。
「なにを当たり前のことを!」と言われそうだが、アーティストの「活動」や「営為」を透かし見てはじめて面白みを感じるような「作品」は、今日のアートシーンにおいて実は多い。その多くは作品の持つ視覚的な強度やそこから自由に広がっていく想像力の可能性よりも、作者自身の「アートな」活動や営為、生き方などの特殊性や意味合いがアピールされ、価値付けされる。「作品」の価値は今や、「活動」や「営為」に比べ下落する一方だ。もはやモノとしての「作品」はマーケット的な価値観においてしか測れなくなっているではないか?と感じるときもある。
そうした傾向が黙認、どころか推奨される背景には様々な要因が考えられる。視覚芸術においてファインアートが突出したジャンルではなくなったこと、信頼のおける優れた鑑賞眼の不在と観るという体験を言語化する作業がおざなりにされてきたこと、「生きにくさ」が強調されるなか社会全体で「拠り所の不確かさ」が顕著となりアイデンティティの希求こそが第一義とされるようになったこと、、etc。
しかしそのどれもが「言い訳」でしかなく、決してモノとしての作品が「活動」より劣るようになったわけでも、視覚芸術としてのファインアートの力が霧消したわけでもないことは、大西や菱刈の受賞作のような突出した視覚的強度と想像力のひろがりを持った作品に出会ったとき、気付く。
ただ惜しむらくは審査員評がパンフレットに記載された無記名の短いコメントしか見当たらないことだ。これだけの視覚の強度を持った受賞作を選出したのだから、個々の審査員にはさらにそれを上回るような強さと説得力のある言葉で応じて欲しかった。(水野 亮)
「第10回岡本太郎現代芸術賞展」
川崎市岡本太郎美術館(2007年2月3日?4月8日)
http://www.taromuseum.jp/exhibition/exhibition_current.html