2007年02月07日
O JUN展「遊園」
どのような異形の相貌を持った絵画でも、目に対して愉楽をもたらしてくれるというのが通例だろう。例えば「異端」として位置づけられ、ある時期までは黙殺されていたに等しい蕭白や若冲にしても、今日では何の違和感もなく、その美を享受して楽しむことが出来る。それはいくら「異端」として位置づけられようとも、「見る」こと以外に累を及ぼさないからだ。あくまでも視覚の内に安穏としてしていることが出来る。ところが0 JUNの作品には目の愉楽を味わうということとは些か趣を異にする。彼の作品はもっと生理的、心理的次元にまでわれわれを引きずり込み、時として得体の知れない不安感すら与える。彼の作品の多くは、広く取られた余白の中に、ぽつりぽつりと図像が点在する。それは数個か、もしくは1つしかない場合もある。その図像は何かの紋章のようであったり、山であったり、女性の顔であったり、または出自不明の線であったり球体であったりもする。本来なら何の変哲もない、ありふれたものと言ってよいだろう。しかしそれがわれわれに馴染むかといえばそうは行かない。一見、稚拙な子供の絵を思わせるような画風、安定感を欠いたような構図で配置されるそれらの図像、どこか見る者の神経を逆撫でするような色彩は、「見る」ことによってカタルシスを覚えるよりも、むしろ不安感すらもたらす。O JUNの作品は、「見る」るという視覚のみに留まらず、嗅覚や触覚までにも刺激を与え、生理や心理の深部で受け止めざるを得ない作品なのだ。
そのO JUNが3月3日まで、中目黒のミヅマアートギャラリーで個展を開いている。タイトルは「遊園」。会場に入って、いつもの彼の個展とは様子が違うことに気が付く。このギャラリーでの彼の個展は数回見ているが、それより倍くらいの出品点数ではないだろうか。これまでは作品と作品の間は空けられていたが、今回は上下の高低差はあるものの、隙間無く作品同士が接している。絵巻のようでもあるが、個々の作品は黒く太い鉄枠で歌舞伎の看板絵のように額装されているため、マンガか中国の連関画のようでもある。描かれているのは、火事を指さす少女、舟、温気が伝わって来るようなトタン屋根の体育館等々に幾つかの作品に共通して表れる「ヘタクソクロス」と題された不思議な図形。各々は独立した作品にもかかわらず、こうした展示形式で見るとつながりのある物語を構成しているようにも思えて来る。先ほどこれらの図像は出自不明と書いたが、正確には出自はO JUN自身の内部に発している。だから物語と見えるものはO JUN自身が語らなければ読み取れないはずのものである。しかし個々の作品の連鎖から、彼ではなくわれわれの物語を紡ぐことも可能。それには彼の作品に固有の大きな余白が鍵を握っている。すなわち、その余白を「吹きだし」のないマンガ1コマの背景、もしくは文字の書き込まれていない挿絵のみで構成された絵本の1ページと見るならば、そこに彼が書きたかった文言、もしくはわれわれが想像の翼を開いて言葉を書き入れることも可能だ。彼自身、絵画と平行して言葉も綴っているが、この展覧会に合わせて発行された作品集に次のような彼の言葉がある。「言葉で書かれた『山』に、絵に描かれた『山』は決して重ならず、隣り同士に連なり『山々』として聳えている」。一筋縄では行かない作家である。(提髪明男)
ミヅマアートギャラリー「O JUN展」↓
http://mizuma-art.co.jp/news_j.html