complex
mailto「現場」研究会について今月の「現場」研究会
archiveart scenepress reviewart reviewessaygenbaken reporttop

執筆者(50音順)

足立元
浦野依奴
大村益三
北澤憲昭
暮沢剛巳
提髪明男
中島水緒
西村智弘
福住廉
水野亮
森啓輔


art review 最新版

山本直彰《帰還 VII――我々は何処へ行くのか》
2010/3/30

羽山まり子「keep distance」
2009/9/4

「にんげんていいな」展
2009/7/24

倉重光則展
2009/6/3

どこかの何とか展
2009/4/22

「伊藤純代 秘め事」展
2009/4/16

吉川陽一郎展
2009/2/21

安 美子展
2009/2/10


art review 一覧

2007年04月05日
Archaic smile ほほえみの考古学展

造形芸術の歴史のなかで微笑みをあらわした作品といえば、まず何が思い浮かべられるだろう?
試しにいま森美術館で開催されている「笑い」展をのぞいてみよう。とりわけ「日本美術が笑う」展のパートでは、古代の土偶・埴輪をはじめとして岸田劉生の麗子像、風俗画・美人画に白隠の禅画、円空・木喰の仏像まで、さまざまなかたちにあらわされた微笑みを見ることができる。この展覧会のテーマは「微笑み」ではなく、あくまで「笑い」である。にもかかわらず、ここに展示されている考古遺物・美術作品のうち微笑みを浮かべた人物像の類は決して少ない数ではない。動的な現象が付随する「笑い」、つまり声を上げて笑ったり涙が出たり身体の痙攣を伴ったりするような「笑い」よりも静止画のような性質を持つ「微笑み」のほうが、スタティックな造形表現である絵画や彫刻であらわすのに適した主題だということかもしれない。
そもそも微笑みは笑いの一種なのだろうか。泣き笑いや高笑い、薄笑いや苦笑いなど、様々な笑いがあるうちのひとつとして、笑いの下位概念として微笑みがあるのではなく、微笑みは笑いという大きな括りから抜け落ちる特殊な表情のようにすら思えてくる。もしかしたら笑いだけでなく、そのほかのあらゆる感情から独立しているのではないか。安倍公房の小説『壁』では、登場人物のエホバ老人が主人公に向かって、笑い・悲しみ・恐怖を各頂点とする「表情の三角形」の中心にある完全な無表情こそが微笑であり、すべての感情は微笑に向かって解放されるのだと語るシーンがある。次いで、目玉の水晶体を原料にしてつくった鏡に向かって完全な微笑をつくると、鏡は透視力を失って何もうつさなくなるというエピソードが語られる。鏡は古典的な表象モデルだから、小説『壁』を足がかりとして、鏡を媒介に微笑みと表象の問題を交差させてみても面白い。静まりかえった水面をいくら見つめ続けてもこちらの視線を撥ね返す反作用力を感じられないのと同じで、完全な微笑みには眼差しを無化する力があるのだと考えることも出来るだろう。
そういえば20世紀最大の画家のひとりであるフランシス・ベーコンも、いつも微笑みを描きたいと思っていたが結局一度も成功しなかった、とインタビューの中で語ったことがあった。実際は、と言うと、ベーコンは微笑みとも何ともつかない曖昧で亡霊めいた相貌の人物像を何点も描いているように見受けられる(ドゥルーズはベーコンの描いた微笑を「彼の最も素晴らしい絵画の内に数えることができる」と評している)。ベーコンにとって微笑みがオブセッシブな魅力を持った主題だったのは、その背後に潜む心理・感情や文学性のためなどではなかっただろう。人々を魅了する優れた造形作品の微笑みの裏側には、常に語り難さがまとわりついているように思われてならない。

さて、その「微笑み」をテーマにした展覧会「Archaic smile ほほえみの考古学」が、いま古代オリエント博物館で開催されている。ここに集められているのは博物館的パースペクティブのもとで分類・整理された遺物であり、美術史学よりは考古学史的に扱われてきたものたちだ。あくまで「笑い」と「美術」の関係にこだわる森美の展示と併せて見ると、それぞれの在り方が対照的で興味深い。
展覧会は地域別で構成され、世界最古の微笑みを古代オリエントの礼拝者像に見出すところから始まる。紀元前2500年の現イラクにあたる地域で出土されたという礼拝者像は、潰れた頭部にずんぐりした鼻、大らかな弧を描く眉が大ぶりな印象を与えるが、唇の端がやけに意志を持ってきゅっと上向きに引き締められているところを見ると、なるほど確かに笑っているように見えなくもない。展示はそれから地中海周辺の文明に時空が移り、ギリシアが厳格様式に入る以前のアルカイク美術の彫像が立て続けに並ぶ。高さ数十センチの小型のコレー(少女像)は、シンプルで抑揚を抑えた形態とテラコッタ・石灰による素朴な質感が相俟って、見る者を静謐な心持ちに誘う。そして順繰りに登場するアルカイク・スマイルの彫像頭部。瞳孔のないアーモンド形の目に人間的な感情が読み取れないのに対し、アルカイク・スマイルを浮かべた口元のカーブはこれもまた不自然なくらいに吊り上がっている。この時代の像の多くは正面性が強く意識されていて(人物の横顔があらわれるのは壷絵のみ)、彫刻的な造形ではなくレリーフ的に顔面が波立たせられており、それが移ろいやすく繊細な表情(微笑み)の眼前化を助けているように思える。
このあと展示は2?5世紀のインド・パキスタンの神仏像を経て、12、3世紀のカンボジア、13?17世紀のタイの仏陀像、中国南北朝時代以降の傭、三尊仏立像、朝鮮の菩薩像とアジアまで辿り、最後に日本のセクションで土偶・埴輪、江戸時代の六地蔵、円空の木彫作品を紹介して終わる。首から上だけのカンボジア・タイの仏陀像が台の上でぐるりと張り巡らされている様などは中々見応えがあり、「首斬り=スペクタクル化」という図式を浮かび上がらせていた。

問題は何を「微笑み」と呼ぶか、である。
ここに集められたすべての造形物に微笑みらしき表情が読み取れるわけではなく、時代やその土地の文化・慣習によって微笑みの意味も定義も少しずつ異なってくる。例えばギリシア・アルカイク様式の人物像頭部にしても、デスマスクのような静謐な顔面と妙に吊り上がった口角との同居がもたらす違和感、これを微笑みという概念で簡単に集約してしまっていいものだろうか?という疑問が湧いてくるのである。
展覧会のタイトルではアルカイク・スマイルと微笑みが(おそらくは意図的に)同列に並べられてしまっているが、本来アルカイク・スマイルと現代的な意味での微笑みは別物である。アルカイク・スマイル(古拙の微笑)とは、人間の顔に生気を通わせるため、顔のなかで最も動きやすい口元に表情の痕跡をほどこす様式のことだ。この様式が発生した原理に現代の視点から接近することは難しい。この展覧会で発見されるのは、シミュラクルとして遺物から分離した微笑みだ。だから私たちが「微笑み」と呼ぼうとする表情のかすかな変化、細部の造形が開示する本当の深遠さは、もはや芸術の範疇では判読できないものなのかもしれない。微笑みは芸術の限界に触れるのである。

会場には、世界最古の楽譜「セイキロスの碑文」を象牙のフルートで演奏したという音楽が、オープニング・ムービーのBGMとして流れていた。当時の記譜法からリズムや強弱を読み取ることは出来ないらしいから、いくらかのアレンジを加えて曲が組み立てられたのだろう。遠く失われたはずの響きが、現代の解釈を経て復元される。同じように、他者の造形言語としての微笑みが新しい息吹でもって翻訳されることがあるかもしれない。美術館・博物館で流される音楽には場違いなものも多いが、淡白ながらに質感のある「セイキロスの碑文」の音色は決して鑑賞の妨げになるものではなかった。(中島水緒)

Archaic smile ほほえみの考古学展 古代オリエント博物館(3月17日?7月1日)
http://www.sa.il24.net/~aom/moyoshi.html