2007年05月06日
マルレーネ・デュマス?ブロークン・ホワイト
"暴力に焦がれる絵画"
書店で画集をパラパラと繰ってみて「これはゼッテー金払って見たくねー」と思ったが、暇だったので(嘘。全然暇じゃない)現在東京都現代美術館にて開催中の「マルレーネ・デュマス?ブロークン・ホワイト」展を見に行ってきた。
展示は2フロアーを使用しており、3階から1階へと下る順路になっている。仕切り壁を排除した広々とした空間に制作年にとらわれず作品を配置した3階の展示は、スケール感の揺らぎを感じる気持ちの良いインスタレーション。対して階下の展示ではデュマスとゆかりの深い他作家の作品が、デュマスの作品と混ざるようにして展示されている。
図版で見たときほど悪い印象ではないが、やはり好きなタイプの絵ではない。ザッと流して見てしまおうと思えばきっと一瞬で見終わってしまっただろう。しかしなにか「引っかかる」ものがあって、足が止まる。
足を止めて見ていると、だんだん絵の見え方が変わっていくのに気付く。じわじわとナニカがこちらに浸み入ってくるような、そんな感覚があるのだ。いったいこれは何だろう?
展覧会タイトルにもなっている「ブロークン・ホワイト」は、荒木経惟の写真作品をもとに描かれた新作だが、おそらくデュマスの他の作品も同じように写真をモチーフにして描かれているのだと思われる。
写真を絵画のモチーフにすること自体は別に珍しいことではない。自分の撮影した写真をもとに絵を描く画家もいるし、他人の撮影した写真をモチーフにする画家もごまんといる。
しかし特に他人の撮影した写真をモチーフとする場合、作品を自分の「オリジナル」とするためには、そのモチーフの選択にはなんらかの「解釈」や「批評」が必要となってくる。例えば「作品」という意識なしに撮られた写真を選択→解釈・批評→絵画化することで、「非芸術的」なもとの凡庸なイメージを「芸術」の域へと昇華させるというのは、そのもっともワカリヤスイ例だろう。ある意味それはもっとも「簡単」かつ「安全」な方法である。そこでは「選択」自体がすでに「表現」の一部として取り込まれているため、画家は自分の作品のオリジナリティを声高に主張できるし、オリジナルのイメージに対して卑下することもない。むしろ自分が「拾って」きてあげたおかげで「非芸術的」だったもとのイメージは「芸術」へと昇華できたのだと、優越心すら抱くことが出来る。
それに対してモチーフとする写真が自分以外の誰かが既に「作品」として撮影したものであるとき、その「選択」のためのハードルはいきなり高くなる。つまり選択 →解釈・批評→絵画化の「解釈・批評」の部分に相当の説得力と独自性がない限り、もとの「作品」から完全に分離した自分の「オリジナル作品」を成立させることが困難だからだ。
アラーキーの写真作品をモチーフとしていることからもわかる通り、デュマスは他人の「写真作品」も自分の作品のモチーフとする。もちろん「作品」として撮られたものではない写真も多く描いているのだろうが、会場を回るとぽつぽつと「どこかで見たことのあるイメージ」に出くわす。しかもその選択は極めて「ベタ」なのだ。
首吊りの少女や髑髏、三本足の男に黒人男性のポートレートと、取り上げるモチーフも既にオリジナルのイメージ自体が多様な解釈を許さぬ「アイデンティティ」を確立してしまっているような、そんなあからさまにワカリヤスイものが多い。しかもその「ベタ」な選択に対して、デュマスはなんら独自性のある「解釈」や「批評」を付け加えているようには見えない。もとのイメージが発しているメッセージや感覚をそのまま絵画化しているような、そんな「身も蓋もなさ」を感じてしまう。
モチーフの選択やその趣味性も含めてデュマスの絵からは、どこか絵を描き始めたばかりの画学生の絵に似た感覚を覚える。まだ確固たるオリジナリティを持たない若者は、とにかく自分が感銘を受けた他人の作品や表現物をその「まんま」の感覚で画布へと写そうとする。それは解釈や批評性が欠落しているがゆえに単なる「趣味の表明」にしかならないのだが、しかし彼/彼女がそのオリジナルに対して感じたraw(ナマ)な感覚は、気恥ずかしいほどのアオクササとともにそこに封じ込められる。それは彼/彼女が画歴を重ね「スレ」て行くことによって次第に磨耗し、やがて消えていくものなのだが、デュマスの絵にはそんなまだ「スレ」ていく以前の画学生のような、そんな臆面もない「rawな感覚」が残存している。それはデュマスが奇跡的に純真さを保ったまま画歴を重ねてきたベテラン画家だからではもちろんなく、意図的かつ戦略的なものなのであろう。しかしいったい何のために?
デュマスが写真をもとに絵を描いているのであろうことは先に触れたが、そのモチーフの大半はポートレートである。
それが写真であるにしろビデオであるにしろ、機械的な手段により他人の像をイメージとして定着するという行為には、常に拭い難き「暴力」の臭いが纏わり付く。「見る」という行為の暴力性に加え、さらにはその像を写し取り→記録するという「暴力」が加味される。「撮影する側/撮影される側」の関係は、たとえそれがどんなに相互理解と信頼に基いたものであっても、あいだにカメラという冷徹な機器を挟んでいる限り、それは「暴力」の構図の上でしか成り立たないのだ。
そして言うまでもなく「暴力」とは、二者の関係性における究極のコミュニケーション形態でもある。それは「愛」なんかよりももっと直接的かつ強烈に二者を関係付ける。
対して絵画の場合はどうだろうか? ポートレートは絵画の主要な一分野である。それこそ写真技術が開発される遥か昔から現在に到るまで、夥しい数の肖像画が描かれてきた。しかし写真やビデオの映像に感じるような「暴力」の気配は、そこでは希薄だ。それは何故か?
写真やビデオ映像とは、「そこにいた記録」である。被写体が、カメラが、そして撮影者が。遠隔操作などの場合撮影者は不在となるが、カメラの存在がその「気配」を残す。ある意味それは「写すもの/写されるもの」「見るもの/見られるもの」の関係性においてのみ成立しているとも言える。モノとしてのフィルムや映像は、その関係性の記録に過ぎないのである。
しかし絵画の場合、その「関係性のバランス」は崩れる。絵画は写真や映像に比べ「そこにいた記録」としては著しく信憑性に欠けるメディアである。それはカメラに比べ人間である画家の恣意が反映されすぎるためであり、絵画自体が「結果」ではなく「目的」であることにも拠っている。もちろん「記録」の為に描かれる絵画も多いが、それは決して描く側と描かれる側の「関係」の記録ではなく、あくまで対象の形態の記録として、あるいは画家の主観の記録として描かれるのだ。
「画家とモデルの関係」「画家と絵の関係」「モデルと絵の関係」は決して交わることのない別の次元で存在している。それぞれの関係における熱量と位相の違いが、たとえそれがどんなに写実的に描かれていようと、描く側と描かれる側の間にどんなにプライベートな心情があろうとも、その「関係」のバランスを狂わせ、バラバラにしてしまう。
もちろんそこには「描くもの/描かれるもの」「見るもの/見られるもの」の構図は存在している。しかしそこに「暴力」の気配が希薄なのは、絵画において「制作者/被写体/絵」がそれぞれ独立しており、その関係性が混じりあうことのない異次元に属しているためではないだろうか。「作品」として成立した後もどこか被写体の、そして撮影者の「影」を引きずり続けて行く写真や映像と、絵画が本質的に異なるのはそこだ。つまり被写体との、そして制作者との、「距離」の断絶である。
デュマスはそんな絵画における断絶した距離感に苛立っているように見える。おそらく彼女が希求しているのは、写真や映像にあるような「暴力」をも伴うような濃密な関係性なのだろう。
デュマスはこれまでもさまざまな作家とコラボレーションの展示を行っているが、今回の展示においても自分の作品に混ぜるようにして他人の作品をいくつか展示している。それは見方によっては作家としての自らの人格の境界をも取り払おうとする試みとも受け取れる。他人の作品を「ベタ」な選択でモチーフとし、独自性のある解釈・批評を加えることなくその「まんま」の感覚で絵にしてしまうのと同じく、他人の作品と自分の作品の境界線を壊そうとするような「乱暴」なこの試みも、「絵画」というメディアが本来的に持っている「距離の断絶した関係性」を打破したいがための試行錯誤なのではないだろうか?
もちろんその試みは成功することもあれば、失敗することもあるだろう。例えば今回の展示では荒木の写真作品をもとに描かれた「ブロークン・ホワイト」の隣には荒木の別の写真作品「中年女たち」が併置されていたが、荒木へのオマージュ以上のものには見えなかった。マライケ・ファン・ヴァルメルダッムのフィルム作品「ファック」の併設も展示の効果としては疑問が残った。しかしその「暴力的な」展示によって彼女が希求しているものを垣間見せることには成功していたと言えるのかもしれない。
彼女の「絵画による濃密なコミュニケーション」への試みで最も成功していたのは、会場の最後に展示されていた自分の娘とのコラボレーション作品である「アンダーグラウンド」だ。デュマスの描いたモノクロームの絵の上に娘がカラフルな色彩で「落書き」したこの作品は、母と娘の「コラボレート」といった言葉から連想される仲睦まじさとは対極にある「暴力」の気配に満ち溢れている。まるで母親の裸の肉体を娘がナイフで切り刻み傷を付けて行くような、そんな「愛憎」すら感じる濃密なコミュニケーションの痕跡だ。
自分の人格が溶け出して他者の肉体に沁み込んで混じってしまうような、デュマスが絵画で目指しているのは、そんな暴力的な関係性ではないだろうか? その「求め得ぬもの」への激しい希求の痕跡が、どこか落ち着きのない不穏な気配として画面の中から漂ってくるのを感じた。(水野 亮)
「マルレーネ・デュマス?ブロークン・ホワイト」
東京都現代美術館(2007年4月14日?7月1日)
http://dumas.jp/j_index.html