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2007年05月17日
長橋秀樹展

長橋秀樹の作品を初めて見たのは1999年、スカイドア・アートプレイス青山で行われた個展のときだった。このとき展示されていた作品で今でも印象に残っているのが、レトロな英米調のキャラクター・フィギュアを朱色の水彩で描いたドローイング群である。そこでは水彩の濃淡を色鉛筆のようにかすれさせることによって、光の振動を感じさせる繊細な像が浮かび上がっていた。かなり精巧に外観を写し取った再現性の高い画面だが、どこかつかみがたい映像感覚があり、絵のなかに居るキャラクター・フィギュアと絵を見ている自分とのあいだに遮断幕が下りているような不思議な心地がしたのを覚えている。
それまでギャラリー廻りというものをしたことがなかった当時の私に、長橋秀樹という作家がどのようなキャリアを積み、どのような文脈のなかで何を意識して仕事をしてきたのかという予備知識は一切なく、また自分が好む作品の傾向やそれに基づいて下される価値判断力の働きについてもまったく無自覚であったが、その画面に含まれた視覚情報の量と自分の目が感知したものとのあいだに圧倒的な質の違いがあることだけはなんとなく察知できた。描かれているもの自体の明証性に対し、「自分の見ているものがよくわからない」という何とも心もとない実感の方が上回ったのである。その後、長橋秀樹の作品を図版や実物で何度か見る機会を得、そのたびに自分の視覚が何らかの成長を遂げているものと期待して鑑賞に臨んだのだが、結局のところ「見えているものがよくわからない」という寄る辺ない感想に辿り着いて終わることがほとんどであった。
そして今回の、GALERIE SOLでの久しぶりの個展。具体的なものを見詰め続けるところから出発した半抽象の絵画作品の数々にはやはりたやすく同調できない視覚の深度を感じさせられたのだが、同時に、長橋の視覚の探求が必ずしも絵画というフレームにおさまりきらないところに興味をひかれた。

まず、ギャラリーに入って最初に目につく壁一面に掛けられているのが、100号程度の大きさの油彩作品。一見したところ銀色の地の上に色とりどりの点描が泡沫のように激しく飛び散っているだけの画面だが、じっと目を凝らすと空間の奥からものの量感が発生してくる。作家の目の前に具体的なモチーフは確かに存在するようである。しかし、それが何であるのかは分からない。
点描といえば美術史的な文脈では新印象派の分割手法が即座に思い出されるが、赤・青・緑などコントラストの強い原色を中心に不純物のようなくすんだ色彩をも織り交ぜた長橋の色感は、造形のカノンを意識したスーラやシニャックと比べて、はるかにカオティックなイメージである。画像の粗い動画や黄変した古い写真を参照して描いたものなのかもしれないし、実物のモチーフを目の前に組んで描いたものかもしれない。また、これらの点描を空間を放流する素粒子とみなすことも出来る。
このような勝手気ままな比喩はいくらでも可能だが、連想を続けたところであまり生産性はないことに気付かされる。「目の前に見える映像を成立させているフレーム」=「絵画」さえ自明であれば、画像の解体と合成を同時に行う絵具の飛沫に、自分のなかの既視のイメージを(リアル/コピーの区別問わず)いくらでも投影して読み取ることができるからだ。

だからこの個展が単なる絵画作品の展示でなくインスタレーションの形式をとっていることは、絵画というフレームを別の次元に向けて位相をずらし、視覚体験を根底から問う作用をもたらしていると思う。
点描絵画のちょうど真向かいに設置された木のイーゼル。ここに緑色のモノクローム絵画が立てかけられているのだが、描画面を汚すのもおかまいなしに、なんとイーゼルのてっぺんから蜜蝋が浴びせられているのである。蜜蝋はキャンバスの表面を流れ、イーゼルの脚をつたってギャラリーの床にまで滴り落ち、重力に従ったままのかたちで固まっている。私にはこのジャコメッティの彫像と同類の空間性をもつイーゼルの佇まいが、作家の見るという時間、描くという行為をひとつの実在として凝固させた結果のように思えた。つまり、定位できないものを定位するというパラドキシカルな行為の表象が成されていると感じたのである。
「絵を見ている私」は緑色のモノクローム画面を描かれたイメージとして了解して眺めるが、それはまた同時に蜜蝋に侵食された(破壊された)フレームでもある。蜜蝋は絵画を侵食しつつも、それ自体がまた新たな視覚的効果を生み出しているという点で、キャンバス上の画像を別次元に拡張するものである。
見ることも描くことも、終点のない持続的な営みであることに変わりはなく、それが絵画というフレームに固定されるべきものとは限らない。最後にひとつ、壁の隅っこに立てかけられた小さな錆びれた木片の存在が気にかかったが、これは解釈で割り切れない「あまり」の部分、見ることにも描くことにも属さない余剰の物質としてただそこに在るのだろうと思った。なにしろ長橋秀樹の作品を見ていつも辿り着く結論といえば、ただひたすら「視覚のわからなさ」に尽きるのだから。(中島水緒)

GALERIE SOL (2007年5月7日?5月19日) 
http://www005.upp.so-net.ne.jp/SOL/EXHIBITION/2007/20075nagahashi.htm