2007年07月04日
宮永愛子展「岸にあがった花火」
宮永愛子の作品に出会ったのは、墨田区にある現代美術製作所で行われた関西の作家によるグループ・ショー。その時の作品は蝶をかたどったもので、同一の額装を施され数十個が横一列に並べられていた。それぞれの蝶には赤い布が付けられ、そこには制作した日付が記されている。素材は防虫剤でもあるナフタリン。時間を経るにしたがって気化し、最後にはまったく形を失ってしまう。そのはかなさ、そしてはかなさとは裏腹な潔さに不思議な感動を覚えた記憶がある。
アサヒビール芸術文化財団主催による「第8回アサヒ・アート・コラボレーション」はその宮永を起用し、やはり墨田区のすみだリバーサイドホール・ギャラリーで7月15日まで開かれている。タイトルは「岸にあがった花火」。地元の人が使った器、博物館かが借用してきた古い衣装、古いミシンそしてルオーの名画などと並んで彼女の作品が配されている。
会場左手、ルオーの作品の前にはナフタリンで作られた5つのオブジェ。横長の箱に丸い窓が4つ開けられ、その内側にはメガネ、時計、携帯電話そして原型を想像できないもの。訪れたのは初日から2週間以上が経過した日。すでに半ば以上は形を失い、メガネは右側が消え、時計はかろうじて輪郭は保っているものの実物のムーブメントだけが時を刻んでいる。携帯電話は形態は窺えるがボタンが陥没し始めている。視覚のための道具、時を計るための道具、コミュニケーションのためのツール。それらが形だけでなく機能までも消失して行くかのような、ある種の恐怖も感じられる。そして4つの窓に中央にはアクリル・ケースで密封された1足の靴のオブジェ。ほかの4つが密封されず、気化したナフタリンはその痕跡も窺えないが、この靴だけは密封されているため、気化したナフタリンはアクリル・ケースの内側に蒸着して再結晶している。その結晶のきらめきは、靴という人類の歩行を手助けする道具が、任務を全うして本来の姿に帰っているようで、どこかほっとさせるようで美しい。古いミシンとセットされているのが和製の糸切り鋏。古いミシンが縫っているカフスの側で、形を失いつつある鋏の対比は、どちらが静止しているの分からなくなるような不可思議な幻惑に引き込まれる。
もう1つ今回の展覧会で注目されるのが、隅田川の水から作った塩を使ったインスタレーション。海に注ぐ隅田川の水質は汽水に近い。したがって根気よくすれば塩を結晶として取り出すことは可能だ。その塩が付着した糸を1メートルほどの壁に張り巡らせている。これは想像だが、糸を水に浸して乾かす。この作業を繰り返して行ったのではないだろうか。張り巡らされた糸はまるでそれ自体が川面のようでもある。照明に輝く塩の結晶は地上に降り立った天の川を思わせる。観客はその下を潜って見ることもできる。隅田川を結晶として再現した糸と塩の川面、実際には潜ることなど不可能な天の川の川面、その下を潜る観客は時空の狭間を通り抜けているといったら大袈裟だろうか。
さて今回のタイトルにも用いられている「花火」。花火は光と音の饗宴ではあるが、1つの花火を取り上げればほとんど刹那の楽しみだ。むしろ本当の楽しみはその余韻にあるのかも知れない。日本の短詩型に例えれば短歌よりも俳句。短い言葉の中でドラマを語ることでは共通するが、人に擦り寄り、肉の時間を感じさせる短歌とは違い、俳句には人を突き放した刹那のドラマが展開され、しかしいつまでもそこには拘泥しない。宮永の作品もまた俳句に近いものがある。だから「花火」という言葉に何らの違和感を感じないのだろう。(提髪明男)
「岸にあがった花火」展↓
http://www.asahibeer.co.jp/csr/philanthropy/art-cul/collabo.html
宮永愛子HP↓
http://www.aiko-m.com/