2007年08月08日
浜田涼「忘却録」
現在、六本木のアート・バイ・ゼロックスギャラリーで浜田涼の個展が行われている。
アート・バイ・ゼロックスは富士ゼロックスが運営するアート・スペース。通常のギャラリーとは趣が異なり、ゼロックス社のオフィス内に作品を展示するというユニークな形式である。しかも展示スペースは一室だけではない。ビル1階にある会議室、応接室、廊下などが使用され、まとまった点数の作品を見ることができるのだ。今回の浜田涼展も2000年以降の作品を中心に今年制作の新作まで30点以上が集められ、浜田のここ数年間に及ぶ活動が大まかにピックアップされる内容となっていた。
少なくともここに集められた作品群を見る限り、素材や手法に様々な試行錯誤を重ねつつも、この作家の追求するテーマは一貫して変わらないようである。
基本的に制作の素材として用いられるのは焦点の定まらないピンぼけ写真である。トレーシング・ペーパーのようなシートで覆ったり曇りガラス風のアクリル板を重ねるなど、半透明のレイヤーを重ねることによってただでさえおぼろげなピンぼけ写真はさらに事物の輪郭線が滲んだ不鮮明な映像に仕立てられている。見方によっては明確な像を結ばない抽象的な色彩が浮遊するだけの画面だが、それでも色やかたちの相互関係から何を撮影した写真なのか大体の見当をつけることは可能である。
室内らしき場所に直立不動でたたずむ人物、大きく引き伸ばされた赤ん坊の上半身像、窓越しに眺められるビル群、緑色が視界いっぱいに広がる草原のような場所…。どうやらモチーフは、ふとした折りに作家の無意識の網に絡み取られた何気ない日常風景やポートレートが中心のようだ。
ごく素朴に解釈すれば、ピンぼけの写真は、リアリティーが拡散して依拠すべき基盤がどこにもなくなった不安定な現実に対する応答であり、万人に共有されるリアリティーが存在しない以上、作り手は私的な記憶や物語を感じさせるモチーフに沈滞せざるを得ないのだ、というふうに考えることができる。しかし、日常のありふれたモチーフで私的な世界観を表現する作家が確かに増えつつある一方で、浜田のつくりだすピンぼけ映像が差し出すものは私的なレベルに留まらない非人称のまなざしであり、むしろ作品の側からの現実に対する問いかけが含まれているように思われるのだ。
ピンぼけ写真にかぶせるシートやアクリル板は単に映像をぼやかせるためだけではなく、プリントそのものの質感や近寄ったときに見えるはずの画像の粒子など、写真のマテリアルとしての側面やメディウムとしての特性を被覆する作用も担っている。この仕掛けによってイメージはより非物質性を増している。半透明のレイヤーの奥にイメージの実体を読み取ろうとする期待は裏切られ、くぐもった画面はどこまでもイメージの在り処を不透明にするのである。
視覚像が成立するためには眼と対象と距離が必要だが、これらの作品はいくら近寄って細部を凝視しても映像が非物質性を保ったままなので、鑑賞者は自分の視覚や作品との距離感が溶解するような不思議な錯覚にとらわれる。目鼻のニュアンスが潰れて個人を特定できないゴーストのようなポートレートは、実はゴーストを眺めている私たち鑑賞者の認識の基盤の方をこそゴースト化してしまうものなのである。
また、画面のトリミングと色彩のコントロールも非常に巧みである。直立する人物の靴の白と道路の白線が呼応して共振するとき、髪の黒色が影と化して空間を侵食しはじめるときなど、じっと眺めていると色彩の一部が全体の整合性を超えて画面を遊離し、存在を主張しはじめる瞬間がある。このように断片的に継起するイメージこそ、私たちが記憶もしくは忘却と呼ぶものの正体ではなかっただろうか。個展のタイトル「忘却録」は、移ろい過ぎ去っていくイメージを記録するという一見矛盾した行為が、浜田の作品において紙一重に成功していることの的確なあらわれに思えた。(中島水緒)
アート・バイ・ゼロックスギャラリー (2007年7月26日?8月15日)
http://www.fujixerox.co.jp/company/event/abx/gallery.html
※浜田涼の個展は京橋の藍画廊でも開催された。(2007年7月30日?8月4日)
http://homepage.mac.com/mfukuda2/aiga275/aiga275.html