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2007年09月10日
『自画像の証言』展

多木浩二は近著『肖像写真?時代のまなざし』(岩波新書)の中で、活動していた時期がほぼ50年ほど隔たるナダール、ザンダー、アヴェドンの撮った肖像写真を比較し、それぞれの特徴を次のようにおおまかに括っている。「ナダールが意識を集中したのは顔の個別性であった」、「ザンダーになると」「一時代の社会全体をさまざまな容貌によって見ようとした」、「アヴェドンのまなざしは、われわれの同時代の、空虚な特徴を際立たせる興味深い領域に入り込んでいる」(同書より)と。

なぜ冒頭に多木の著作を紹介したかといえば、この本を読んだ後に、たまたま東京藝術大学創立120周年の記念事業の一環として、9月17日まで東京藝術大学美術館陳列館で開かれている「自画像の証言」展を訪れたからである。同大学では明治32年から卒業制作として自画像が描き続けられており、平成18年までには約5000点が制作され収蔵されている。これまでにもこれらの中から著名な作家のものは紹介される機会があったが、今回展示されたのは有名無名を問わず最初の自画像から平成18年度卒業生までの約170点。5000点という膨大な収蔵量から比べればごく僅かな展示だが、何とも不思議な内容の展覧会となっていた。

この自画像制作を提唱したのは黒田清輝。黒田の狙いは「日本にそれまで存在しなかった『画家』なるものを作り上げようということ」、そして「個性や自我を持つことが芸術家にとって考えて」(同展図録より)いたからであり、そのための手段として自画像が課題とされたそうである。すなわち自画像は自画像でもあったのだ。ここで、この展覧会を「不思議な内容」と記したのは、これらの自画像群はいったいどこに帰属しているのかということである。もちろんモノとしては東京藝大に帰属している。自画像を描いた卒業生にとっても学校に提出するものとして制作した。しかし学校以外の一般の人に公開されると思って制作したわけではないだろう。「自我」を追求するという目的で制作し、学校に収蔵されれば輪は閉じられる。それがいわゆる普通の「作品」とは異なる点だ。

ではそれを見る側はどのような目でそれらの作品に接すればよいのか。閉じられた輪の一部が開いて垣間見ることはできる。窃視にも似た行為として。しかしいわゆる絵画作品のように一定時間をわれわれの側に帰属させることは可能なのだろうか。制作した者にとっては自画像、それと知って見ている第三者にとっては自画像であると同時にいわゆる肖像画でもある。青木繁なら青木繁の、岡鹿之助なら岡鹿之助の肖像画であり、ただしモデルとなっている人物が制作者であることが純粋な絵画作品として捉えられない所以でもある。あたかも合わせ鏡の中に闖入したような妙な疎外感すら味わってしまう。それでもこれらの自画像を見る魅力は、逆にその疎外感にあるようにも思える。著名な作家で画風や経歴を知っていれば、その僅かな知識を重ね合わせることによって、1枚の自画像から新たな物語をこちらの主観だけで組み立てることができる。まったく知らない作者であるならば、表情やポーズ、服装だどから見知らぬ人の物語を、これも主観だけで組み立てる。疎外感に対する反動でもあるかのように。それは各種メディアに乗った顔写真から勝手に背後を類推する感情に似ているかも知れない。だから今回は170点ほどであったが、もっと見たいとい欲望にかられることも正直なところである。とりわけ作者を知っている人物の自画像という肖像画については。おそらくこれに近い欲望は、ナダールやザンダー、アヴェドンも共有していたのではないだろうか。(提髪明男)

東京藝術大学美術館↓
http://www.geidai.ac.jp/museum/