2008年01月28日
工芸の力?21世紀の展望
窓から差し込む光の柔らかな、いつもよりも明るめの陳列室。東京国立近代美術館工芸館の開館30周年記念展「工芸の力?21世紀の展望」では、力の入ったその大仰なタイトルとは裏腹に、展示室のなかには勇壮な大言壮語や難解複雑な議論は姿を見せず、ただ物たちとの対峙を促す穏やかな空間がひろがっていた。
14人の出品作家による作品は、陶磁、藍染、木彫、鍛金、漆芸、織物、ガラス細工とその手法も、素材も、形体も多種多様であるが、会場全体の印象は不思議と無秩序を感じさせない。多様性の中にも通底するものが在ることを、確としてそこに感じ取ることができる。
前田昭博の白瓷に無限の色彩を感じ、福本潮子の藍染に宇宙を思う。高見澤英子のガラスに美と脆さの共生の姿を見、橋本真之の巨大な銅に生と死の同居したフォルムを見る。須田悦弘の葉に擬態した木彫の窓辺で佇む姿に木の葉の思考を想像し、北川宏人のアニメ風のテラコッタに電脳世界における物質性を夢想する。
回廊状になった会場をぐるぐる回っていると眼の愉楽に止め処はなく、去りどきを見つけられぬまま時間は矢のごとく過ぎていく。
先に「難解複雑な議論は姿を見せず」としたが、各々の作家の展示には作者の一人称による文章がパネルとして掲示されている。制作の過程を仔細に説明するもの、素材について語るもの、自身の制作について振り返るものなどその内容は様々であるが、共通するのはそれらのコトバが作品を狭義の「意味」へと落とし込むのではなく、作品をより深く「見ること」へと観賞者を誘う役割を担っていることだ。
工芸が「使うもの」より離脱し「見るもの」へと純化したとき、その造形は「用」という大きな支柱を失った。機能性の不在は「見られること」の重みを、なによりも強調する。
工芸の本質は、「見られるもの」としての純粋性にこそ在る。それは「見られること」のみを存在の意義とする過酷さと、常に同座しているかたちなのだ。
素材のちから、手のちから、そして「見ること」とそれを受け止める物のちからを、言葉のちからによって導く好展覧会。必見。(水野 亮)
「開館30周年記念展II 工芸の力?21世紀の展望」
東京国立近代美術館工芸館(2007年12月14日?2008年2月17日)
http://www.momat.go.jp/CG/30th_II/index.html
*編集部註:文中の「高見澤英子」の「高」の旧字が表記されないため、新字とした。