2008年02月02日
ハツヒノテン。
ある展示を見て何らかの感興を呼び起こされ、それについての文章を書く。改めて、その行為の周辺にどのような磁場が形成され書き手を突き動かしているのか、考えてみる。
作品や展示、企画性の良し悪しの判断と価値付けを行うのがいわゆる展覧会レビューの役割と考えられている場面もあるようだが、そもそもひとつの作品を見てそれを良い/悪いと思うとは、一体どういうことなのだろうか。良い/悪いという価値判断の背後に、「判断を下す確固たる主体」の存在というものが捏造されてはいないだろうか。
ある作品、ある展示を良い/悪いと思った、その価値判断の背後にはどうしても理屈で割り切れない意識の闇の部分がある。一人の人間が作家Aと作家Bの作品を良い/悪いと思うのにはそれぞれのケースや状況によって理由も異なるのであって、すべての理由を論理によって整合的に説明できるわけではない。また、同じ一人の作家Aの作品でも、一年前の作品aと現在の作品bのあいだに表現の構造上の著しい不連続が観察されるとき、前回その作家の作品について下したときの判断や物言いがもう通用しない、ひとつの連続的な文脈のもとで語れない/語りたくない状況というのがあらわれることがある。
作品について語る言語が作品と出くわすたびにそれまで積み上げられてきたイメージを裏切られ、文脈を初期化されること。完全な初期化がありえなかったとしても、そこでは作品についてのイメージと言語が相関性を失って混沌へ突き落とされるときの不安が経験される。それほどの衝撃を与える作品と出会いは稀であるかもしれないが、初期化がもたらす分節点から自分の経験を逐一検討しなおしていく作業にこそ、作品について語る行為のラディカルな側面が顕現するといえるのではないだろうか。「語れない」という不可能性への肉薄が、「語りたくない」という内発的な倫理による意志が、言語とイメージについての特別な磁場を形成する。
二週間ほど前、銀座の某ギャラリーで行われたグループ展で、以前にこの「展評」欄でも取り上げたことのある描き手の作品が展示されているのを見た。別の場所でのグループ展で見かけた小品数点を除けば、この人の作品を見るのは久しぶりのことになる。しかしその画面に対峙したとき、思わずキャプションで作者の名前を確認しなおしてしまうほど表現の位相は変化していた。かつてのあの、見る人を静観へと誘う淡く繊細な中間色のグラデーションがすっかり消え失せ、かわりに黒、灰、白のほぼ三段階のモノトーンのみで構成された、叙情性の入り込む余地を完全に排除した画面が出現していたのである。
画面をオールオーバーに覆いつくすのは無軌道にうねる長短さまざまのストロークのみ。そのストロークの集合には何かの対象のイメージや形式の存在を外部に指示するような構造づけが見られず、「モノトーンの色彩で構成された抽象絵画」というエクスキューズが通用しない、ただ筆触がのたうちまわっている事実だけが見る者の眼前に迫ってくるカオティックな画面に仕上がっている。
「音が鳴っている」とか「木々がそこにある」といった存在の伝達と同じように、筆触を媒質として漏れてくる存在がただそこにあるだけ。まだ完全に乾いていないのではないかと思わせるほどマチエールがつややかで生っぽく、ストロークの伸びの良さが絵具の質を物語っている。しかし肝心なのは絵具の物質としての視覚的効果ではない。筆触は放出されるがままに自身を剥き出しにし、筆触としての質や意味を脱ぎ捨ててなまのイメージを立ち上げているのだ。語の正確な意味で、これらの筆触は「nude」なのである。
ところで色彩が黒・灰・白の無彩色に制限されているのはなぜなのだろうか(下地にそれ以外の色彩が用いられている可能性もあるが判別しにくい)。ある種のモダニズム絵画に見受けられる還元主義やストイシズムの影はそこに見られないし、階調差でヴァルールを生み出すわけでもなく、まして黒や白の色彩に象徴性を込めているわけでもなさそうである。うねる筆触の集合がいかなる意味にも預けられない点において、また言語を拒絶して内面のイメージへひたすら沈下する反世界的な身振りにおいて、それはニヒリズムをすら感じさせる画面である。
のたうちまわる筆触は作者の迷走または独走の証しか。作品の受け手を置き去りに随分と遠いところへ作者が行ってしまったようにも思えるし、停滞を物語っているようにも思える。何を描いた絵画なのかはわからないが、作者にとっての対象は確かに存在しているらしい。
この絵のタイトルは《こずえ》と言う。木々の梢を描いた作品なのか。そんな単純な解釈はしたくない、しかしそんな単純な解釈をしたくないという意識自体、理性による判断であり、固定観念に縛られたものの見方にも思えてくる。「こずえ」という人の名前かもしれない。ありえない。タイトルから理解できるものは何もないのだ。名付けによる補完を拒否する身振り、そして言語とイメージのぎりぎりのせめぎ合いから最低限のものを提示するこのようなミニマルなタイトルの付け方自体、イメージの裸出性を探る作者なりの倫理が働いているのかもしれない。
今回展示された作品がこの描き手にとっての駄作なのか失敗作なのかあるいは新たな回路を見出すきっかけとなる問題作なのか、実際のところ判断を下すのが非常に難しい。しかし、見る者の言語とイメージを揺さぶるその佇まいにぐっと掴まれるものがあった、という事実は確かに残った。案外何事もなかったかのように元の中間色の繊細な階調が繰り広げる夢想の世界に戻るのかもしれないが、現時点で出来ることとしてこの分節点を観測し、文章化しておきたいと思う。(中島水緒)
ギャラリーツープラス 2008年1月8日?1月20日