2008年02月03日
中上清展 絵画から湧く光
神奈川県立近代美術館の鎌倉館で「中上清展 絵画から湧く光」(2008年1月4日? 3月16日)が開催されている。1月20日のアーティスト対談にあわせて鎌倉へ向かった。
神奈川県立近代美術館は、よく知られているように1951年に開館した日本最初の公立近代美術館で、本館と別棟から成る。今回の展示は本館の第1展示室、第2展示室を使用している。
第 1展示室はおおよそL字型になっており、入り口両脇と突き当たりの壁に最新作が並ぶ。最新作を鑑賞しつつ、順路に沿ってゆくと、日本では未公開の2001 年の「第10回インド・トリエンナーレ」に出品した3点が突き当たりを曲がった右側の壁に掛けられている。インド・トリエンナーレの出品作の向かいの壁には、入り口周辺同様に今回の展示のために制作された《無題》(2007)が並び、最新作だけでも11点を数える。さらにその先の突き当たりの展示空間には、「今日の日本画 第13回山種美術館賞展」に出品された件の作品が次の会場に向かうドアの横に掛けられている。
2つの展示室の中間に山種賞展出品作が位置していることから、この作品は中上にとってメルクマールとなったのだろうかと、中上の作品に対する従来の評価に追従する考えを巡らしてしまう。日本画の顔料を使用せずに制作した本作が日本画の権威である山種美術館賞展に推薦され、審査時に物議をかもしたといういわくつきの作品だ。その後、現代美術家である中上が「琳派 RIMPA」展(2004)や「アルス・ノーヴァ」展(2005)、「日本×画展」(2006)など”現代”の日本画や工芸について再検証を行う展覧会に招待されたのも、ここからはじまる動きということができる。
第2展示室の小部屋には、初期の作品が並べられている。フォルマリズムに傾倒していたという時期の作品だ。鮮やかな色彩の効果を狙った作品やタブロー自体の額縁性を内在化させようとした作品など、若き日の中上の試行の痕跡をみることができる。展示構成はシンプルなほどに時間軸の逆方向で行われている。
第1展示室の作品はおもに黒地に金の絵具が筋状に流れる作品や、金の重層的な垂らし込み技法によって光の出現を感じさせる作品が並ぶ。筋状の作品も光の出現を目指していることは感じるが、最新作の垂らし込みにおける光の出現の達成度には目を見張るものがある。
しかし、作品の記述を試みようとすると、個々の作品をどのように言い分ければよいのか手立てがないことに呆然とする。なぜなら、中上の作品のタイトルはすべて《無題》であるからだ。《無題》(2007)、《無題》(2000)、《無題》(1999)、《無題》(1997)・・・・・・。制作年やサイズの違いこそあれ、ある種シリーズ化された作品は差異をはらみながらリフレインのように観る者に迫ってくる。
展示空間は暖房が効いているにもかかわらず、作品の前に立つと凍てつくような感覚を味わう。凛とした隔たりに立たされ、寄る辺なさを覚えたときにタイトルにすがろうとしても、そこにあるのは「無題」という二文字の言葉と制作年と技法材料に関するわずかな情報だ。
ある人は言葉を欲する衝動に駆られるだろうし、逆に《無題》というタイトルすらなくてよいという人もいるだろう。中上は、トークのなかで「タイトルをつける能力が退化してしまった」と冗談めかして語っていたが、最初からタイトルをつける気がなかったように今後も一貫して作品と現実世界とを隔絶した空間を?? 隔絶によって結ぶ逆説的な空間を??つくり続けることだろう。
しかしながら、これらの作品が「無題」ゆえに却って鑑賞者に、言葉への欲望をかきたてつづけるだろうことも否定できない。タイトルが《無題》であることのひとつの意味として、それは観る者に対して余白を提供しているのだともいえるのだ。この余白はすなわち、作品と現実世界との隔たりであり、隔たりとして現実と作品を繋いでいる。
こころみに、ひとつの作品について記述をする。展覧会のタイトル「絵画から湧く光」とあるとおり、最新作からは靄がかった光が黒地の層から湧き出るのが感じられる。エアブラシで画面の地を黒系の絵具で塗りつぶされたキャンバスからは音を閉じ込めたかのように沈黙が流れる。沈黙を裂くように光が現れるが、その光の粒子を形成する微量な色彩のグラデーションとぼかしはエアブラシの特色といえよう。ローラーによって制作していたこれまでの平面的なスタイルとは異なり、空間の広がりを感じさせる。光を描くのではなく、光の出現する瞬間を描きたいという中上の言葉は、最新作11点の瞬間の連続によって体現されている。そこには、まるで宇宙線を記録する乾板のように、物質的な現象における光なるものの出現が認められる。中上は、光の出現する瞬間を描いたというより、出現させる装置を組み立て、作動させたというべきかもしれない。
これら第1展示室に並んだ作品は、ここ10年ほど画廊で新作をみてきて微妙な変化は感じていたが??徐々に慣らされてきたせいもあってだろうか??これほどの変わりようであったかと驚かされる。一見するとほとんど変化がないような場合でも、細部をみてみると、これまで中上が構築してきた技術がまるで静かに渦巻いているかのようだ。同一の技術的達成の無限の変幻に改めて息を呑む。
しかし、ここには、 2001年のインド・トリエンナーレ直後から最近作に至る期間の作品は出品されていない。つまり、7年の空白がある。その間、制作から遠ざかっていたわけではない。今回は、あえて出品しなかったのだという。つまり、展示構成として、2007年の《無題》に至る期間に大きな空白があるのであって、これは私が中上の作品を鑑賞した期間の半分以上にあたる。記憶を探ってみると、この空白期間は大きな魅力に充ちて蘇ってくる。欠落した作品群が、この展覧会に光輝を与えているのだとさえいえそうにも思われる。中上の制作におけるテーマのひとつである「無限の彼方」について「希求の強さに比例して遠くなるもの」とカタログのなかで山梨俊夫が言及しているように、この展覧会もまた、あるひとつの不在によって「彼方」から充たされているのだ、と。
あるいは、空白期間を意識することによって、制作年で区分けされた展示が、いってみれば空白を縁取っているのではないかともいうことができる。これは、最新作品に至るまでの空白期間が最新作品群とそれ以前の初期作品のフレームとなっているということでもある。こうしたフレーム効果によって、作品を超越した展示空間の自律化が試みられているのではないかとの考えが頭をよぎる。
大規模な美術館での個展は回顧展と捉えられがちだが、これまでの作品が今日への布石にすぎなかったのではないかと感じられるほどに、圧倒的な力をもって中上の「いま」をまざまざとみせつけられる。現今の《無題》(2007)は、そのストイシズムによって観る者を圧倒するのである。自作に関してさえ他の作品の追随を許さない気迫が感じられる。
しかしながら、中上は作品を制作し続けることで、あっさりと「いま」を踏み越えてゆくのだろう。中上の「いま」は常にひとつの通過点に過ぎない。しかし、この踏み越えは、同一シリーズのなかにおける個々の作品のレベルで今後も行われるのだろうか、それともシリーズ全体の踏み越えが目論まれるのだろうか。もし、後者であるとすれば、あの空白期間こそ、踏み越えるべき指標であるのではないか。こんな思いが再び脳裡をよぎる。(浦野依奴)
神奈川県立近代美術館鎌倉館 2008年1月4日? 3月16日
http://www.moma.pref.kanagawa.jp/museum/