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2008年06月07日
冒険王・横尾忠則

初公開!60年代未公開作品から最新絵画まで
 横尾忠則展をめぐる社会的事件について一言しておく。ソースは朝日新聞(6月6日朝刊)の記事と、独自取材である。
 世田谷区立の小学校は、年一回小学四年生を対象に「美術鑑賞教室」を開いている。学校ごとに世田谷美術館の企画展のどれかひとつを選んで学童たちを連れてゆくのだが、今年は、全64校のうち22校が「横尾忠則・冒険王」を選んだ。
 ところが、同「教室」開催の直前になって小学校校長会から区の教育委員会に同展の鑑賞を考え直すよう要請があり、けっきょく横尾展は教育委員会の判断で鑑賞教育の対象から外されることになった。性的な表現や、暴力にかかわる表現のあることが忌避されたのだ。
 忌避の事由の是非はともかく、鑑賞の中止を決定した当の区教委が、この展覧会を後援しているのだから、おどろかないわけにいかない。後援するからには、充分な吟味が行われたはずであり、横尾展が学校教育にかんして如何なる意義を有するのか、また、それが学校教育に馴染むのものであるかどうかという点について、事がここに至る前に何らかの判断が下されていて当然だからである。横尾展が学校教育になじまないとする判断を、校長会の申し入れを受け入れるかたちで、そそくさと下したとういうのは、どうしても解せないのだ。
 そればかりではない。教育委員を拝命しているほどの諸君であれば、改めて内容を吟味するまでもなく、横尾忠則が、どのような作風の画家であるかについて、つまり、性的表現や暴力性が横尾の絵において重要な役割を果たしていることくらいは知っていて然るべきであった。横尾忠則は文化史に名をとどめる著名なアーティストであり、しかも、世田谷区に在住しているのである。
 横尾の絵を子どもたちに見せるな、などといいたいのではない。学校教育に関係する人間なら、もう少し腹をくくって態度決定をしてはどうかといいたいのだ。学校という制度の理想に殉じる覚悟か、もしくは、愚劣極まりないその現実に耐える大胆さか、さもなければ、学校教育の裏をかく狡知か、あるいはまた愚劣な現実に身命を賭して徹底抗戦する野蛮さか、おのおのの信念にしたがって事にあたるべきであったと考えるのである。新聞に大きく報道されるからには、現場の教員の良心的行動など水面下の動きがあれこれあったことと推察されるのだが、そうであったとして、しかし、結果として現われたところをみるかぎりでは、さまざまな立場からのストラッグルがじゅうぶん行われたようには、とても見受けられないのだ。
 それはそれとして、横尾忠則の絵が、しかし、はたして教員生命を賭してまで??みずからの生活を賭けてまで??学童たちに見せるほどの価値があるものかどうか。それについても、よくよく考えてみる必要がある。この発問は、いささか酷にすぎるかもしれないが、教育者の職分には、自らを追い詰る必要のある場面が必ずともなうのではないだろうか。あるいは、そこまで思いつめなくとも、横尾展を生徒たちに見せたいという思いは、公然とストラッグルを引き起こすほどのものではなかったということは、成り行きに照らして、確からしく思われる。それくらいならば、いっそ収蔵品を見る機会を狙うべきであった。美術館における鑑賞教育の第一の意義は、子どもたちが美術館という施設に親しむ機会を与えることにあるのだから、なにも企画展を見せなければならないわけではないのである。それに、自分たちの町の美術館について知るのに、コレクションの展示は最高のチャンスであるだろう。
 ところで、このたびの一件で、学童対象の鑑賞教育にタガが嵌められることを懸念する向きもあるようだが、小学校教育は、児童にタガをはめるのが、その役割である。こうした批判者は、学校教育に、何を期待しているのかしらないが、無いものねだりはしないほうがよい。学校現場には、何でもありはありえないのだ。
 これに対して、プライヴェイトな鑑賞にかんしては、横尾忠則であれ、平山郁夫であれ、ヒロ・ヤマガタであれ、エゴン・シーレであれ、子どもたちに見せることに何か問題があろうはずもなく、保護、育成にあたる者たちの資質、感受性、趣味、知的レベルに従って、それぞれ勝手次第であるし、子どもたちは子どもたちなりの感受性で判断を下してゆくだろう。だから、美術館は横尾展であれ、平山展であれ、みずからの信ずるところを、展覧会のかたちで堂々と示し、問いかけてゆけば、それでよいのだ。
 とはいえ、このたびの事件を機に、浅慮の有力者が、公立美術館における展覧会の在り方についてイチャモンをつける事態も、じゅうぶん想定できるので、もう一言だけ申し添えておけば、公立美術館と公立小学校では、いうまでもなく立場が異なる。美術館も学校と同じく教育にかかわる機関ではあるものの、それは社会教育の場であって児童教育に特化された場ではない。
 それどころか、両者は時に対蹠的でさえある。芸術教育の重要な目的のひとつは、自分独りで感じ、考えることのできる自律的人間の在り方を追求する共和主義的理想に存しているからであり、これは、日本国における学校教育の現実と正反対といってよい。学校教育は、その理想はともあれ、日の丸、君が代の強制や職員会議の空洞化にみられるように、現実上は、現存公権力にとって都合のよい人間を育てあげることを??つまり愚民の養成を??目的としているとしかみえないからである。このような学校教育の現状にとって、美術館が時に“危険”な存在でもあることはいうまでもあるまい。この“危険” が愚劣さへの警告の意味をもつこともまた、いうまでもないところであるだろう。
 ようするに学校教育の目的と限界と、美術館の目的と限界とは、大きく異なるのであり、それについて関係者は、じゅうぶんな認識を踏まえて事に臨まなければなるまい。近現代芸術の求めるところが現実の学校教育とは大いに背馳するということを、そして、その背馳が、人間社会にとって今なお大きな意義をもつものであることを、このたびの事件を機に、多くのひとびとが認識することになるならば、この愚劣な事件は、愚劣ならざる貴重な社会的意義を帯びることになるのにちがいない。
 世田谷区の「美術鑑賞教室」は、「伝統と文化」を尊重する態度の育成を目標にかかげる「教育基本法」の精神にかなう企てである。また、近年の鑑賞教育重視の動きとも連動する重要な催しともいえる。美術館と学校という、それぞれに教育にたずさわる二つの機関が、はたして、どのようなかたちで互いにかかわりうるのか、この機会に根本的な反省がなされて然るべきだろう。むろん、これは世田谷区にのみかかわる事柄ではない。
 ちなみに、横尾忠則展の鑑賞を予定していた小学生たちは、世田谷文学館の「ファーブル昆虫記の世界」展を見に行ったらしい。この展覧会にも「ジオラマや絵はあるので、美術鑑賞になる」というのが区教委の説明である。区教委は、どうやら『美術という見世物』という本から学ぶところがあったようにみうけられる。(北澤憲昭)


世田谷美術館 2008年4月19日?6月15日
http://www.setagayaartmuseum.or.jp/exhibition/exhibition.html

編集部註:6月8日一部訂正、6月11日改稿