2008年06月15日
秋本将人 「COSMOSPIRAL」
Ⅰ
「色彩に身を投じることは、すなわち、ある程度は、言語の限界へと身を投じることである。多くの場合は言語という媒介を通して、言語のない世界がどのようなものであるのかを想像しようとすることだ。」
(デイヴィッド・バチェラー著、田中裕介訳『クロモフォビア?色彩をめぐる思索と冒険』青土社)
色彩。私たちが概念を与えるのに先んじて存在する、無限定で超越的な拡がり。
絵画作品の鑑賞において、色彩は最も捉えがたい要素のうちのひとつである。捉えがたさの理由、それは言語による記述化の難しさ、と言い換えてもよいかもしれない。
画家が創造過程のさなかで見ていたかもしれない色彩の奔流を、私たちは完成された絵画からどれほど感じ取り、語ることができるのだろうか。色彩は観念の上では無限の階調と境界なき拡がりを持つ。しかし、ある色彩を備えた絵具がキャンバス上に置かれ、支持体や他の絵具と関係性を結んだ途端、それは現実の具体的な存在との関係性において検討されるべきものとなる。画面にほどこされた色彩の価値は常に相対的だ。キャンバスの上に塗られた絵具の赤はもはやただの赤ではなく、他の色との対比的な関係で見られたとき、それは限りなく青に近い赤に見えるかもしれないのだ。寒色のなかに暖色的性格を発見し、無彩色のなかに彩りを感じ取るなど、言葉の上では矛盾になってしまう知覚現象が、絵画鑑賞の場面ではいくらでも起こり得る。
色彩を語ること、それは端的に色名の問題とも関わる。
ミシェル・パストゥローは『ヨーロッパの色彩』のなかで、実際の色と名づけられた色のあいだの隔たりを指摘し、「物の色とその色の名が隔たっている理由は、修辞法で換喩と呼ばれる比喩の形式に由来することが多い」と述べている。
例えば、マティスのある絵画作品を「黄色い部屋」と呼ぶことは、全体から受ける色彩の印象を画面の一部分に代表させているだけで、画面にほどこされた実際の色彩の正確な記述ではない。そこに換喩の作用が働いているからこそ、そのような言い方が成り立つにすぎないのだ。
だが、比喩には比喩ならではの、隔たりを無効にしてしまうくらい強力に作用するイメージの喚起力がある。
20 世紀美術史上もっとも偉大な画家の一人であるジョルジョ・モランディの、画面を劇的に変えてしまう微細な色彩のレパートリーについて、同時代のイタリア人作家であるアルデンゴ・ソッフィチは「無音の緑、悲しげな暗褐色、乳状の白、銀のグレー、カナリアと切り株の黄色…。」と、色彩の質を翻訳するような形容で表現した。こういった記述をあまりに主観的すぎる共有性の低い比喩として、いちがいに批判したり切り捨ててしまえるものだろうか?モランディの絵を知っている人が抱いているモランディの色彩についてのイメージを、微妙なニュアンスを損なうことなく想起させたいのなら、モランディが実際に使用した顔料名を並べるよりも、むしろ比喩的に色彩を表現するほうが有効な場合も考えられる。「カナリア」や「切り株」という語に触れられて、色彩についての記憶や感受性はイメージに向けて跳躍するのである。
「比喩の宇宙軌道」というタイトルの詩のなかで“大地はオレンジのように青い”と書いたポール・エリュアールではないけれど、しかしこうした概念と概念が逆立して接続するような色彩体験は、美術作品をめぐるテキストが本来志向すべき“語り得ないものを語る”という課題にとっても、「詩的な開かれ」として歓迎すべきものではないだろうか?
私たちは目の前にある絵画から、色彩の背後に隠れた形而上的な欲望を遡及しなければならない。色彩を語ることは、非言語の領域へ接近を試みることにほかならないのである。
Ⅱ
パレットに並ぶチューブから絞りたての絵具ほど色の魅力を即物的に伝えるものはない。まだ混色されていない絵具の、艶やかで生っぽい純な輝き。私たちの目は、絞り出された絵具が空気に触れた刹那に帯びるフレッシュな輝きを感知する。そしてこの輝きは、私たちが予めその色の名から連想していたイメージに対し、現実の具体的な絵具の色が勝ったことの証でもある。
絞りたてのフレッシュな絵具が魅惑的なのは、それが混ぜ合わせられ、画面に塗布されることで無限の色調に変化するかもしれない可能性を、潜在的なものとして未来のために取っておいているからではないだろうか。色彩が知覚に与える初発的なショックは、見慣れるに従ってしだいに減退していくかもしれないし、何かのきっかけで再生することもあるかもしれない。いずれにせよ、私たちは色彩に、見られるたびに新しく生まれ直す存在であってほしいと期待し、“色彩への一目惚れ状態”が、できるだけ長く持続することを願うのである。
そしてここに、新しい色名の発明と共に、眼が色彩と出会ったときに受け取る原初的な歓びを、絵具という実存に宿らせることに成功した一人の作家がいる。5月10日から29日まで、恵比寿の工房親で展示を行った秋本将人だ。
初めに断っておくと、秋本は、キャンバスやパネルなどの支持体に絵具や媒材をほどこす類の絵画作品を展示しているわけではない。にもかかわらず、そこにあるのは、絵画の成り立ちについて思いを巡らせずにはいられない、極めて「絵画的」な所作の産物である。
まず、今回の展示を構成するメイン・モチーフを見てみよう。それは、クリーム状の絵具を2枚の木片でサンドした、手のひらサイズの菓子のような物体である。この絵具サンドは、クリームの色を様々に変えながら、十数点以上のバリエーションが作られている。茶色い絵具はあたかもチョコレートクリームであるかのように程良い艶を持っているし、オレンジ、レモン、ラズベリーなど、フルーツ系のクリームを思わせる色彩も木片にサンドされている。また、生クリームのようなホワイト系の絵具のなかにレーズン風の絵具の粒を混ぜ込むとか、透明性/不透明性の絵具でジャム系/クリーム系の違いを演出するなど、いかにも菓子らしく見せる工夫も見受けられる。
クリームはアクリル絵具に顔料を加えるなどの方法で作っているらしいが、改めて気付かされるのは、ケミカルなアクリル絵具と食用クリームが実は近しい色味と質を持っているということだ。というよりも、絵具と食用クリームの親近性を積極的に錯覚させるアナロジーの力がそこに作用しているというべきだろうか。絵具は2枚の木片の隙間からしか見えないのだが、見る者はいつのまにか、わずかにはみ出た色彩からクリームの種類を想像する楽しみに導かれるのである。
絵具サンドはボール紙で出来た箱に詰め込まれ、上下2段の配列で規則正しく壁に掛けられている。縦横互い違いに箱に詰め込まれた絵具サンドが幾何学的な構成をかたちづくっている様子は、視点を転換すれば、菓子箱が「絵画のように」壁に並んでいる風にも見える。
箱詰めシリーズのほかには、絵具サンドを紙皿に山盛りに積み、手作りの木の台座に乗せた作品が展示されている。こちらの作品には、「つみ藁」「サント=ヴィクトワール山」など、近代絵画の巨匠たちが繰り返し挑んだモチーフがタイトルに引用されている。お皿に盛られた絵具サンドがちょうどつみ藁や山を思わせるシルエットを形成しているということなのだろうが、しかしこれは単なるタイトル遊びの域には留まらない。もはや美術史上でイコン化された像であるつみ藁とサント=ヴィクトワール山が、東急ハンズで大量に売られているような既成パーツの木片で作られた物体の像に転移するということ。あるいは、絵画の歴史における形而上的なモチーフを、日常の卑俗な物体において倍音のように響かせるということ。無数の筆触がモネにとってのつみ藁、セザンヌにとってのサント=ヴィクトワール山を構成する単位であったように、秋本にとっての絵具サンドは、つみ藁的なもの、サント=ヴィクトワール山的なものを構成するための基礎単位なのではないだろうか。
なお、このシリーズのキャプションには、「お皿いっぱいのコンポジション」という極めて魅力的な単位名が冠せられている。秋本の作品ではタイトル(キャプション)も作品の組成を示す重要な要素らしく、会場で配布されるプリントに絵具サンドの種類別の名前が逐一細かく記載されているのである。
例えば箱詰めのシリーズだと、「ラズベリー・カラーとオレンジ・クリーム・カラー/8ピース・ボックス・コンポジション」という具合に、絵具サンドの色と箱に詰められた数がキャプションに反映されている。作品を組成している「色(種類)/数(量)」としてタイトルを見た場合、目の前に具体物として存在している物量に「お皿いっぱいのコンポジション」という名詞=単位を授けることは、数値化しがたい創造行為に対するウィットに富んだ創造的命名であるようにも思える。
Ⅲ
お菓子のような絵具サンド、カラフルな色彩をはさんだ絵具サンド、お皿からこぼれんばかりに山盛りにされた絵具サンド…。これらには、美術だとか作品云々だとかの理屈を介さずに、率直に見る人を惹き付けるシンプルな美がある。一見たいしたテクニックも要らないような素朴な作りなのに、妙に気にかかる存在なのだ。しかし改めて考えるに、実際に食べられるわけでもないお菓子「のような」作品に気持ちが惹かれるとはどういうことなのだろう?お菓子的なイメージの導入は、作品に何をもたらすのだろうか?
秋本の作品の魅力は、「お菓子みたい」な外観に限定されるわけではない。お菓子の魅力を審美的に感じたいのなら、ケーキ屋にでも足を運んでウィンドウ・ディスプレイを延々眺めていればよいのである。クリームの味を楽しみたいなら、本物のクリームを舐めているほうがさぞかし味覚も満足させられることだろう。そもそもお菓子的なフェティシズムを追求したいのなら、木片やボール紙の素地を残したまま作品に使用する理由がわからなくなってしまう。もっとお菓子的な外観に仕上げる手段はいくらでも存在するはずなのだ。
この場合、やはり絵画的であることが重要なのである。あらゆる表象が溢れ、生み出されたどんなものにも既視感がつきまとってしまう現実、絵画がレディ・メイドで組成されている現実から、この作家は新しい感覚を汲み出そうとしているのではないか。
ここでもう一度、作品のタイトル(キャプション)の付け方に注目してみたい。先にも述べたように、すべての絵具サンドには「ホワイト・クリーム・カラー」「チョコレート・クリーム・カラー」といったお菓子風の色の名称が付けられている。イブ・クラインは自分でオリジナルの顔料を発明し、目の醒めるような青に「インターナショナル・クライン・ブルー」と名付けたが、特許まで取得したクライン・ブルーが唯一性の色彩であるのに対し、秋本の使用する色彩は、法則的な名付けによって組み換え可能なコードを形成しているように思える。(また、造形上の構造としても、絵具サンドは好きなように箱に詰め替えできるつくりになっている。鑑賞者はサンドを自由に詰め替え、作品の構造形成に参与する。)
「チョコレート・クリーム・カラー」や「レーズン・ホワイト・クリーム・カラー」といった色名は、バリエーションへの欲望を誘発すると同時に、それぞれの色彩が持つ固有の質を喚起する。実用的側面から離れるとき、言葉は単一の意味を指示するだけに留まらない。ときに色名は、その色の知覚やイメージの醸造にまでさまざまな影響を及ぼす。私たちは、「チョコレート・クリーム・カラー」という色名が心に呼び起こすイメージと目の前の物体がひとつの像を結ぶとき、お菓子的なバリエーションの愉しさと絵具それ自体の質を体験し、感覚が複数に開かれるのを体験する。
隠喩(metaphore)の語源を探ると、metaが「越えて」、phoreが「運ぶ」という意味である。重要なのは、隠喩のもたらす変化、移動、転用によって何が起こるのか、である。ここで、ポール・リクールが『生きた隠喩』のなかで述べた次のような言葉が思い出される。「隠喩的言述において、眠っている実存の潜在性が花開くように現われ、行動の潜在能力が現実として現われるのである。」
お菓子的なイメージと絵画的なイメージの類比は、絵画の構造を〈再‐記述〉し、新しいステージへ連れ出すための方法と見ることができる。お菓子的な外観が食欲を促すとか、クリームっぽい絵具がクリームの味覚を思い出させるとか、そういう体験が実際に感じられるかどうかは問題ではない。これらの作品は、あくまで「見られるため」に供されている。例えば、木片と絵具の組み合わせが想像させる2種類の触感、硬いものと柔らかいものの対話を、鑑賞者はまず「見る」ことでなぞろうとする。
「見られること」への配慮は、作品のサイズや展示の設定にも端的にあらわれる。鑑賞者に「お皿いっぱいのコンポジション」を差し出すようなかたちで壁や柱から出っ張った台座にしても、質素なギフトボックスを思わせるボール紙の箱にしても、身体的なスケールにしっくりしたサイズや高さで作品がこちら側に提示されている。鑑賞者は、差し出された感覚を玩具のように愛でることができるのである。
ごく当然のことなのだが、作品はやはり、「見る」ことからはじまる。そこで実現されているものは何なのか、また、背後にあるものは何なのか。秋本将人の展示は、思考と実践のプラクティスによって、ありふれた質素な現実から豊穣さのきっかけを引き出すことに成功している。言葉もまた、しなやかな弾性をもってこれに応えなければならない。(中島水緒)
工房親 2008年5月10?5月29日
http://www.kobochika.com/exhibition/200805.html