2008年06月23日
建築がうまれるとき??ペーター・メルクリと青木淳
近年、美術と建築の境目が曖昧になってきている。何を今更と言われそうだが、展覧会の現場では特にそうした印象を強く受ける事実は否定のしようがない。確かに建築展というジャンルは以前から存在したが、それはあくまで実作の代用物としての模型や図面の展示であり、絵画や彫刻の実作が展示される美術展とは明確な線引きが為され、美術家と建築家の同居という事態はまず考えられなかった。ところが近年では、建築家が美術展に参加することも珍しくはなくなった。国際展の会場にアトリエ・ワンが屋台を出してももはや大きな違和感はないし、石上純也の巨大な風船作品が昨年の「Space for your future」展において最大の目玉だったことを覚えている人も多いだろう。いつ頃からの傾向なのかはまた別に検討する必要がありそうだが、ボーダーレス状況は着々と進行しているのだ。
著名な建築家の2人展である本展もまた、そうした傾向に棹差すものに違いない。「ルイ・ヴィトン」や青森県立美術館の代表作で知られる青木淳と、スイスを拠点に住宅をはじめとする多くの作品を残してきたペーター・メルクリ。同世代という以外にこれといった接点のなかったこの両者だが実はともにアート好きでもあり(メルクリの師の1人は彫刻家のハンス・ヨゼフソンでもある)、近代美術館の2階を会場とした本展も趣旨、内容ともにずいぶんと美術寄りの展覧会として企画された。会場を一瞥して、オーソドックスな建築展につきものの整然とした機能的なイメージからは程遠い周囲をやわらかく包み込む雰囲気に、ある種のユーモアを感じ取った観客も少なくないだろう。
作品の完成にたどり着くまで、建築家は何度となく図面を描き、模型を制作するなどの試行錯誤を繰り返す。そのプロセスを「スタディ」と総称するが、「建築がうまれるとき」と題されたこの展覧会でもまさしく青木とメルクリの「スタディ」へと焦点が合わせられている。青木の展示が天井から吊るされた花形のテーブルの上に白やブルーの小さなスチロール模型を配置していく「お花畑」のような雰囲気なのに対して、メルクリの方は多くのドローイングを額やテーブルに収めての展示であり、まったく異質なキャプションの説明も相俟って、両者の「スタディ」の違いは誰の眼にも明らかなものとなっている。
本展に出品されている青木の模型は約100点、メルクリのドローイングにいたっては約300点にも達する。これだけのサンプルを前にすれば両者の差異を羅列するのは容易いが、しかし本展の趣旨に即すなら、注目すべきはむしろ両者の共通点であろう。そのことを前提に置いたとき、私の脳裏に真っ先に浮かんだのはエル・リシツキーの「プロウンルーム」のことだった。「プロウンルーム」は美術と建築の「中継駅」を目論んで作られたキューブ状の部屋のことであるが、空間の象徴性や機能性への洞察を孕んだそのキューブには、2 次元から3次元への意向を必然的に伴う建築の「スタディ」にも通じる要素が多々潜んでいる。また同様に、メルクリのドローイングや青木のメモからは「パランプセスト」という概念も思い起こされた。本来使い古しの羊皮紙を指すこの言葉はいつしか建築の文脈で「重ね描き」を意味するようになったのだが、メルクリのユーモラスなドローイングや青木のアイデアの詰まったメモからは、フリーハンドの線を何度も「重ね描き」することによって、当初は茫漠としたものでしかなかった住宅のアイデアが徐々に具体的な像を結んでいく様子が強く想起されたのだ。もちろん、作品を作り出すための生みの苦しみは当事者にしかわかりえないことに違いないのだが、瞬時とはいえ「建築がうまれるとき」を疑似体験するきっかけとなるのなら、展覧会としてはそれで十分しめたものだろう。本展企画者の保坂氏によると、今回青木とメルクリの2人を指名したのは彼の好みに負うところが大きかったようだが、結果的にその人選はいたって適切なものだったといえそうだ。
展覧会を見てから数日後、神保町の古本屋街を散策していた私は、ある書店のファサードに見覚えのある絵柄のグラフィティ?が眼に留まった。果たしてそれはメルクリの描いた「作品」だった。聞くところによると展覧会当日にふらりと立ち寄った際に描いたものらしいのだが、このような微笑ましいサーヴィスにまで美術と建築のボーダーレス状況を見るのはさすがに穿ちすぎというものだろうか。(暮沢剛巳)
東京国立近代美術館 ギャラリー4 2008年6月3日?8月3日
http://www.momat.go.jp/Honkan/Maerkli_Aoki/index.html