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art review 最新版

「中村馨章展 禁忌の園」
2011/10/11

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2010/3/30

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2011年10月11日
「中村馨章展 禁忌の園」

ある画面では何十羽もの群れとなり、静寂に覆われた深夜の住宅街を舞う。また別の画面では、血のように真っ赤な媒質の中、渦巻く気流に飲まれながら高みへと目指して飛翔する。花びらの上にじっととまり、透き通る羽を二重の像にブレさせ、生と死の領域をまたぐ小さな獣。中村馨章の描く蝶たちを思い出せるままに記述するならば、以上のようなものとなる。

古来より、蝶はさまざまな意味合いや象徴を担ってきた。「胡蝶の夢」という言葉があるように、中国の古い故事において蝶は「はかなさ」のたとえであり、ギリシア神話の世界だと「魂」を意味する「プシュケー」、キリスト教ではイエス・キリストの「復活」を示すシンボルである。
中村の絵の場合、本人のステイトメントによれば、蝶は「人間の持つ『生命と霊性の輝き』の象徴」であると言う。こうした作者自身による解説は、確かに絵を見る際のひとつの手助けとなるし、語られなければ知られることのない描き手の思想を、見る者につまびらかにする。だが、描かれた形象と概念のあいだに結ばれる記号的な指示作用を確認することは、ここでの目的ではない。蝶のイメージを媒介に私の脳裏に浮かぶのは、ベンヤミンの自伝的エッセイ「ベルリンの幼年時代」に収録される短いテキストのことだ。

そのエッセイ「蝶を追う」で綴られるのは家族と毎夏を過ごした郊外の家での記憶。幼いベンヤミンは蝶をつかまえることに夢中になり、捕蝶網をかまえて庭道から野の中へと飛び出す。しかし捕獲は容易ではない。花から花へと飛び移る気ままさに、追う者は翻弄されるばかりとなる。

「そんなときには、気づかれずにそおっと目ざす相手に近づいて、さっとすくい取ることができさえしたら、そのためには光や風にも溶けてしまいたい、とまで願うほどだった。」

「わたし自ら全身をあげてそのけものに寄りそうてゆけば、つまりわたしが心底から蝶になりきろうとすれば、それに応じてこの蝶のあらゆる振舞いは、いっそう人間らしい決意の色をおびてきて、ついには、この蝶を捕まえることこそ、わたしがわたしの人間存在をふたたび取り戻すことのできる唯一の代償であるかのようになるのであった。」
(『ヴァルター・ベンヤミン著作集12』「ベルリンの幼年時代」 晶文社、1971年)

ベンヤミンのテキストを引いたのは、単に蝶つながりの連想からのみ始めたことではない。蝶というとらえがたい存在をとらえるため、自身を蝶に似せること。対象を模倣するために、光や粒子といった原子のレベルに溶けてゆくまで自己投擲すること。ある種の画家にとって、イメージの探求とは、そのような「蝶を追う」体験に似たものではないかと感じたからだ。

ここで一度、過去に中村が描いてきたモチーフを振り返ってみたい。まず、絵の舞台として頻繁に描かれてきた夜の住宅街の光景。そこではしばしば家並のシルエットが連なり、沈黙の闇からは路面に引かれた道路表示の白線が亡霊のように浮かび上がる。そして夜空に広がりネットワークを形成する送電線。
交差点(十字路)を示す白線は、この描き手がキリスト教を制作のインスピレーションとしていることを思い起こすまでもなく、十字架というシンボリックな形象をただちに連想させる。これは地上に見出された聖なるものの反映なのだろうか?
日常で目にする光景や事物を発端にしながら、「ここ」と「彼方」、「地上的なもの」と「天上的なもの」を媒介する形象の数々。それらはあたかも世界と交信するための触媒であるかのようだ。そして独自の象徴体系が生成されていくなか、描き手をもっとも魅惑するものとして、蝶というモチーフが画面に繰り返しあらわれるようになる。




(fig.1) 《高みに昇る彼らたち》

東京藝術大学の卒業制作《白日夢》に引き続き、修了制作《高みに昇る彼らたち》は蝶が群飛するシーンを描いた作品である(fig.1)。しかし、前者の青を基調とした画面が静謐さを湛えているのに対し、後者の印象は大きく異なる。もはや舞台は現実との連続性を感じさせる住宅街ではない。激しく燃え上がる熾烈な赤、血のようでもあり炎のようでもある色彩、また下方に視線を転じればすべてが消尽したあとの虚無が広がっている空間を、無数の蝶たちが狂おしく飛翔しているのだ。
そして画面の中央では、人間の魂が乗り移ったと感じさせるほどの異様な存在感をもって、翅をひろげる一匹の蝶がいる(fig.2)。


(fig.2)《高みに昇る彼らたち》(部分)

原寸よりも大きなスケールで描かれたその蝶の翅は、光の射し込み具合によって乱反射の度合いを変える日本画画材のマティエールとイメージをオーバーラップさせつつ、あたかも幻視のスクリーンのように、見る者の意識をミクロの世界へと誘い込む。
細部への極度の集中。そこにあらわれるのは確かに人が「蝶」と呼び概念で把握もできるものなのだが、同時に言語以前の未分化な状態を夢見させるものでもある。
アリストテレスは言った。「詩人は、己れの作品の中で、自分自身が表面に立って語るのを、できる限り、慎まなければならない」。主観的な内面の告白から距離を置き、純粋な媒介者と化すことができる者のことを詩人と呼ぶならば、厳格な再現描写におのれを仕えさせる画家は、研ぎ澄まされた認識の極北で、詩としてのイメージを滴らせることだろう。画面の細部を眼で撫でる半睡状態の時間のうちに、次のような直観が訪れる。おそらくこの画家にとって、対象を精緻に写実的に描くことが、「光や粒子に溶け合うこと」に通じているのではないか、と。


(fig.3)《非合理性の具体化》

今年の5月、新生堂で開かれた個展では、《高みに昇る彼らたち》や蝶をモチーフとした小品などに加え、2011年制作の新作も展示された。そこではイメージが明確なかたちを結ばぬまま投げ出されたような不穏さが支配している(fig.3)。曖昧模糊とした鈍色の闇が辺りを覆い、具体的な形象ははっきりと見えない。しかし目を凝らすと、蜘蛛のような長い節足を持った生き物が一匹、濃霧のなかに潜んでいる様子が微かに見え、その脈動を見る者に伝える。
作品自体はまだ未完の状態で、これからも筆を加える余地があるのかもしれない。だが、生成途上の段階にあるイメージは、とらえがたい存在を見極めようとする真摯な探求の証でもある。蝶からトランスフォームした形象はどこへと向かうのか。奥行きの知れない闇が、その先の光を予感させる。(中島水緒)

 

※蜘蛛(タランチュラ)が描かれた作品について補足。作者本人に聞いたところ、毒を持って捕食をする蜘蛛は「森の番人」であり「浄化」の象徴として描いたとのこと。また掲載画像は新生堂での展示後に加筆した作品を撮影したものである。

新生堂 2011年5月11日~5月27日
http://www.shinseido.com/ex/2011/03/nakamura-yoshiaki.html