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中村錦平氏インタビュー「東京焼」を語る 4    1 2 3 4 5

<アメリカとの出会い>

Nakamura Kinpei
C:走泥社的なものはそのまま現在まで来てますよね。

N:あぁ、来てますね、一方で。

C:つまり走泥社自身が走泥社を反省することがなかった

N:なかったですね、それは言えますね。

C:錦平さんはそこから全く別なところで‥

N:僕はある意味、京都を知らなくて運が良かったかもしれない。走泥社をまったく知らないでアメリカに行った。アメリカへ行ったら、良いも悪いもない、揺さぶられてしまった。理屈じゃなくて。八木さんは「こういう時代がやってきた。こういう考えを今後は持たなくてはならない」というのを友人である堀内正和(註21)とか辻晉堂(註22)と刺激しあって、固有性を出さねば作家ではない、という考えにいたって呷吟した。僕にはそれがない。そんな青年がアメリカの、こともあろうにカリフォルニア行って、いい悪いじゃなくて、時代と対峙するとはこういうのはこういうことなんだ、というふうになった。それが僕を衝き動かした、とも言えます。

C:今言ったアメリカへ行ったというのはすごく大事だと思います。八木一夫とか走泥社というのはアンフォルメル(註23)、つまりヨーロッパを向いている。ところが時代はアメリカへ向かっている。

N:そうでしたね。

C:ところが彼らは相変わらずアンフォルメル風の、書もそうだったけど、現代美術はこんな感じ、とやっていた。その頃アメリカは違っていた。それがまた1つのポイントになっているんじゃないですか。

N:分析すればまさにそうです。京都などの前衛を体験してない僕が、たまたまオリンピックの年の、現代国際陶芸展(註24)を見て、びっくりして「これは時代が違う、金沢の時代じゃないんだ、人間国宝は時代を読めない」、いち早くアメリカを体験しなきゃ、となったから、そういう道を歩むようになったんでしょう。

C:日本の陶芸界は、ヨーロッパに親和性を見せますけど、アメリカにはなかなか親和性を見せない。

N:そうですかね。当時はそうでもなかったんです。井上雅之くんは、かつて助手の頃かなぁ、僕に「錦平先生は何かというと『アメリカは素晴らしい』と言いますけど、今はもうそんなことありませんよ」と言ったのが印象的でした。彼にはアメリカ経験ないしね。それに多摩美の焼き物は幸いにそのプロセスを経ないで、かたちになりだしていた。アメリカに限らず、九谷も織部も走泥社もそうですけど、新たな動きをやりだす。それはゴミだとか言われながら、だんだん力をつけていく、人を動かすようになる。で、成立。そして成熟しだしたら、今度は下り坂にかかる。それは全アートに共通することです。僕もさすがに「アメリカ素晴らしい」て言うのやめたけど。ましてブッシュのアメリカになったから(笑)。そういう創出の活力をもったアメリカを知らない若者が自立しだしている。素晴らしい。でも、この自前で出てきた動向も30〜40年くらいで活力を弱めていくでしょうけどね。

C:そこが決定的で、60年70年代のアメリカが一番活きが良かった。そういう出会いの違いは大きいですよね。

N:いや、もう出会いにつきます、ほんとに(笑)。出会いに敏感に、同時代の必然に真摯に対峙するというのが、敗戦の時に得た何事にも代えがたい見識。今の時代を見ると、60年前の日本が300万人の人を殺して獲得した、大切にすべき気概も見識もなしくずしに亡くしてしまうもんなんだ、とつくづく思う。

C:現実にそうですね。

N:だから300万人殺した痛みというのは、痛みを感じた人が死んでいくと、そうでなくなるんだな、結局。日本人の根底にある考え方というのは50年60年くらいで変わるものじゃないんだ、と最終的に感じている。ただ、終戦に遭遇したから、例外的な考え方なり言動をちょっと持つことになった日本人だった、と思っている。明治維新から、その後の日本人の流れをみていると、僕らはどちらかというと例外に属する時に生まれ出てきた限られた例外的な世代だったのかな、と感じている。

C:そうですね。60年とか70年にあたるような状況は今はないですからね。ずっとゆっくりと坂を下っているみたい。逆にこれから目指す人というのは難しい。何と戦うのか。

N:他人事ながら、本当に。僕らの時、文化的目標で一生、貫けて良かったと思う。模索ではあったけどすごい充実していた。

C:多摩美での教育のシンポジウムでお話伺ったときも、これから高度情報社会における工芸なり、焼き物なり、器なりを考えろと、すごく難しい問題を投げかけられてましたよね。

N:そうですね。投げかけられた方はたまらないね(笑)。

C:工業対手わざというのと、情報対モノというのは別の角度が必要になってくる。

N:そうね。でもね、若者の直感というのはすごいですよ。僕、年とった証ですけど、それを弱くした分、理屈で補おうとする。でも若者は理屈がなくて直感があるから若者なんですよ。だから何人かの教え子のなかには、「あぁ、この発想はコトの時代に対峙した発想なんだな」というのが混ざってますよ。いつの時代も若者は直感をもって登場してくる存在なのよ。今後、人がロボットに近づいたら直感がどうなるのか、わかりませんけど。今のところ若者には直感があって、20人なら20人の学生に課題を出して1割ぐらいがコト的な要素でアプローチする作品というのはこういうことなんだ、と見せる子がいる。例えば、この前、ギャラリー山口で展覧会をやった齋藤正人の多くの表札をつくってのインスタレーション「齋藤家の上京物語 —日本人の苗字ベスト300からみる—」を、例えば技至上の人間国宝なんかが見たら「お前、これが焼き物か?ばかじゃないか」って一笑に付しますよ。だけど、あぁ恐ろしいと僕は思った。新しい波があらわれ僕は追いあげられようとしていると思った。これはコト的な要素を焼き物の中に吹き込むとなると、こういう答えがでてくるんだ、と。もう1人、坂本友里さんという女子学生は、神奈川県展の平面立体部門でグランプリもらったし、岡本太郎美術館でも優秀賞をもらった。彼女のテーマの探し方だって、自分の幼稚園行ってアンケートとったり情報を仕掛けたりして作品化した。僕らの世代だったら、立体っていうのは、後ろ側もまわって見れるものでなきゃ立体じゃないんですよ、とかせいぜいやってインスタレーション、なんて言ってたのが、そんなの全然頭にないもん(笑)。だけど、見るとコト的な要素たっぷりもってるなぁ。教えられている、大学で僕は。

C:そうですね、彼らの作品を見てると、固定された枠をいったんほぐしておいて集めてきて展示する。今までのモノづくりとは違うけど、新しいモノづくりってことになる。

N:なるんです。だから、あぁ心配したもんでもない、若者は直感をもってるんだ、と思いますね。

C:それを認める錦平さんがすごいと、僕は思う(笑)。

N:わりあい柔らかい(笑)。僕ね、ある時少し自信もったんですよ。講評の時に、間島領一さんと、尹熙倉くんと、井上雅之くんがいた。僕だけ恐る恐るだけど「おもしろい」て言った。あとの三方は「こんなの自己満足だ」「何でもやりや、いいというものではない」って。この3人こんなこと言ってるけど、この時代の衝き方が僕らのものより恐ろしいんじゃないかしら、と僕は思いましたね。

C:でも逆に言うと、そういった人達の方がモダニズムにどっぷり浸かってる。

N:そうなんだよ。僕より20いくつも若いのに、どうしてこんな事言えるのか。

C:結局ポストモダン的な考えができない。

N:そうかもしない。僕「あぁ出てきた!」って思った。さすがに自分の中から出ませんよ。だけど見て、ひょっとしたらこれが、そういう時代を直感してるんだ、と思いました。それがギャラリー山口へと展開していった。

C:今勉強になりました。やっぱり僕も形とか手わざとか、惹かれちゃうんですよね。でも彼女たち、確かにほぐしてますよね。インターネット的な感覚ありますよね。

N:だから、モノだモノだって引け目に感じてたけど、ちゃんとコト的要素でモノを発想し、コントロールできるんだ。しかし、そういう若者たちも僕らとの接触がないと、焼き物のイメージをどこで作るかというと、たいがい三越の工芸品売場みたいのところとか、よくて近美の工芸館のケースの中に入ってる焼き物しかない。彼らはそれ以外を見聞する機会がない。体験もない。そういうところで、モノ派(笑)ながら僕らの出番がある。土の可塑性にはこんなに多くの可能性がある、と気付かせてさしあげる場を作るのが、僕らの経験豊かな教師達にできることの1つですよね。それさえやっておけば、あとは向こうが自力で驚くほどすくすくと育ちますよ。それが教育の現場にいる魅力です。



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—註—

21)堀内正和:彫刻家(1911−2001)。京都府に生まれる。1928年(昭和3)東京高等工芸学校彫刻科に入学。翌年中退し、二科会の藤川勇造に師事。36年第23回二科展に抽象作品を出品。太平洋戦争中は制作発表を中止し、アテネ・フランセにかよう。戦後は抽象彫刻の代表作家として活躍した。
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22)辻晉堂:彫刻家(1910−1981)。日野郡溝口町(現在の伯耆町)に生まれ、洋画と彫塑をまなび、昭和8年、日本美術院展に初入選し、その後、毎年、院展に作品を発表した。昭和33年、ベネチア・ビエンナーレ国際美術展に出品し、日本を代表する彫刻家として名声を高めた。すでに戦前期に独自の具象彫刻を完成していたが、戦後、飛躍して抽象に進み、陶磁、あるいは鉄を使用して緊張感のある世界を展開した。
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23)アンフォルメル:この動向は第二次大戦後のヨーロッパでいち早く強い影響力をふるった。きっかけは、終戦直後、J・フォートリエ、J・デュビュッフェ、ヴォルスら“非職業的”画家の激しい感情表現に注目し、そこにキュビスム以降の展開を予見した批評家M・タピエが、52年に彼らを中心とした非具象絵画の美術運動を組織する際に、「非公式の、非定形の」という意味のこのフランス語をあてたことにある(もっとも、タピエはこの名に「もうひとつの芸術」という含意を持たせたようだ)。
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24)現代国際陶芸展:朝日新聞社、国立近代美術館が共催した日本で最初の現代国際陶芸展。19カ国で構成、1964年に東京、名古屋、京都、久留米を巡回した。日本の現代陶芸に、国際的視野と20世紀の陶芸観の覚醒と自覚のきっかけを提示した。
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