中島 智(武蔵野美術大学/芸術人類学)
-目次-
序 一輪の野花を見立てるということ
1章 〈近代〉に仕組まれた非合理性
2章 再-魔術的芸術の視座
3章 society・外部・〈動物化〉
4章 情報化社会における〈欲望〉
5章 シミュラークルの次元
結び Inner-formationの風景
序 一輪の野花を見立てるということ
前稿「見い出された〈非時間性〉」では、アビ・ヴァールブルグを通して図像解釈学の起点に人類学知性が介在していることを示した。そして彼の人類学的視座がとらえた、ヨーロッパにおける「蛇殺し」という運動と、それを逆説的に支えてきた「蛇信仰」という無意識的な心性とは、本稿における「脱魔術化」と「魔術的思考」とにそれぞれ比定しうるものなのである。そしてこの、「魔術的思考」としての神話=呪術的思考(論理)は、近代の脱魔術化という動向にあっても、残存=持続しつづけてきたものなのである。その顕著な例として、私は「芸術的思考」を挙げてきた。例えば、社会的意識というものは社会システムそのものを〈即物化-現実化〉してしまう働きをもつが、そこでは無意識や自然が〈抽象化-外部化〉されてしまう。ゆえに一個の人間にとって社会とは、つねに自らよりも小さな城となり、そこからはみ出した収まりの悪さは解消されえない。そこで社会的意識は非現実とされるものに対して(理解はできないにしても)寛容にならざるをえない。じつは「芸術的思考」にたいする近代社会における誤解と賛美はこの点に起因しているのである。
でははじめに、芸術と人類学の関係について簡単に説明しておこう。芸術および人類学はともに作者や文化の〈無意識〉を読み取っていく作業を伴う点で相似性をもつものであるが、個人をモデルに敢えて簡潔に述べるとすれば、芸術とはある個人がその興味(資質)と探究(訓練)によって得られる〈技術〉であるが、これに対して人類学ではある質をもつ文化においてあらゆる個人がその認知過程(衝動、官能性、表象など)において具現する〈能力〉をおもな研究対象とする。もちろん、この〈能力〉が特化されたものが〈技術〉であり、〈能力〉の基底にも〈技術〉の極みにも共に曰く云い難い神秘が私たちの理解を阻んでいるものだ。となれば芸術人類学とはそうした〈技術〉-〈能力〉の両端にある深淵を覗き込まざるをえない性質のものであるとも言えるであろう。
人類普遍の〈能力〉の一例として挙げることができるのが「見立て」である。「見立て」という能力は、落語家が変幻自在に用いる扇子から作庭、詩歌や地唄におけるメタファーまで、身近な素材や自然現象を何かに転用したり、あるいはそこにあるものを通してそこにないものを示現させる能力として、日常生活から技芸世界にまで広く認められるものである。人類学ではこれを「ブリコラージュ」と呼ぶことがあるが、こうした能力は民間信仰や即興劇はもちろん、日用品から家屋、景観やその動植物の生態までを象徴的に見立てていく神話化作用とも密接なものである。面白いのは、この「見立て」という能力を鍵にすると、私たちが慣習的に用いている「表現者/鑑賞者」という区分が無効となってしまうことである。
この「見立て」については先の「見い出された〈非時間性〉」の最終部において軽く示唆することしかできなかったが、これはG.ベイトソンの述べる「草の三段論法」(=メタファーの三段論法)、すなわち「草は死ぬ 人は死ぬ 人は草である」という古典論理学からすればたんなる詭弁と看做されてしまいがちな三段論法とも深い関係がある。詳しくは後述するが、彼によれば「ひかえめに見つもっても100万年前まで」この論法が生物界の組織化から精神過程までを支えてきたのであり、また現代においても「詩、芸術、ユーモア、宗教が、分裂症と同じく草の三段論法びいきであること」を指摘している。
ともあれ、この「見立て」および「メタファーの三段論法」というものは、かねてより私がその類同性を指摘してきた神話的思考と芸術的思考においても共通に認められるものなのである。すなわち、先の時間論で詳述したような、神話的思考における「神話的時間が地上のあらゆるものから徴候(シーニュ)として現われ、つねに目前に示顕しつづけること」と、芸術的思考における「見える世界を通して見えないものを観想し、隠れたものを露わにするアレーテイアとしての見立て」とは、実は同じ能力(働き)に対する二種類の説明(文脈)に他ならないのである。それはまた視点ごとに、ブリコラージュ、純粋贈与、創造原理、などと言い換えられるものなのだが、要するにマテリアライゼーション(具現)という働きのことなのである。
ここで少し、本稿の表題「再魔術化するアート」について触れておくことにする。ルネ・デカルトが1637年に出版した『方法序説』に以下のような記述がある。
「我々を囲む他のすべての物体の本性とふるまいとが知れるようになれば、それらをしかるべき目的のために利用することができるようになる。そのとき我々は自然の支配者にして所有者になることができるのである。」
脱魔術化を推進させた近代合理主義の根本にある考え方が、この〈支配としての知〉、もしくは〈所有としての知〉であった。すなわち、管理としての知である。「再魔術化」という概念も、実はこの〈近代知〉という枠組みにおいて命名され、ヴィジョン化されてきたものにすぎない。正確には、「近代合理主義が徹底されればされるほど、魔術的としかいいようのないものが露になってくる」(岡田 聡)【註】という表現の方が妥当なのである。加えて言うならば、この〈近代知〉においては、相対的にその管理(理解)から逃れるものが露になる効果によって魔術的なものが再表象されうるけれども、実際それはヴァールブルクが看破しているように古代から現代に至るまで生き続けているものなのである。
そして、もし「アート」というジャンルが可能だとするならば、そこでは端的に、魔術的なものの示現性が高いという性質がポイントとなりうるだろう。それはレヴィ=ストロースが『野生の思考』でアートと呪術(具体の科学)の類同性について述べているように、その出自から機能してきた性質なのだ。
ところが、この性質は脱魔術化プロセスの側から見ると、秘教的もしくは自閉的と形容されがちなものとなり、社会的善に従って開拓されるべき対象と看做されがちとなる。すなわち、芸術活動は公共空間において「日常言語によって翻訳すること」(ハーバマス)が社会的なのだという考え方である。そもそもアートに無意識的なものの端的な示現性が高いのは、その性質によって人類に要請されてきた〈技術〉だからであり、その専門性や自律性をもって「秘教的、自閉的」と命名してしまう知のあり方のほうこそが問題とされなければならないのである。
こうした特定の記号体系による管理システムは、さらに人格の問題にまで波及しているものだ。それは、あるべき自己(演じられた自己)とそれを管理(選択)する自己との自己分裂(R.D.レイン)であり、これら二つの自己の境界が溶解する「生の強度」(共時性)としての自己に誘う芸術活動は、その自己分裂を正常値とする社会規範から見た場合には狂気と並んで安易に俗化または美化されやすい。すなわち、シャーマンが預言を発し、芸術家が作品を具現化する際の心理的手続きにおいて、必然的に、耐え難い狂気との境界画定が行われているという事実がそこでは見逃され、その画定プロセスにおいて芸術作品に内在化されている社会性にも気付かれないままになってしまうわけなのである。
「脱魔術化/再魔術化」という知の枠組では魔術的なものを正確に捉えることはできないということについて述べた。しかし、本稿では便宜的にこれらの枠組を用いることにしよう。なぜならここでの目的は魔術的なもの〈それ自体〉について述べることではなく(それはそもそも不可能なことだ)、魔術的なものが再表象(徴候化)される契機とその可能性について構造的に示すことにあるからだ。
前稿の「時間論」では、この「脱魔術化/再魔術化」の関係を「蛇殺し/蛇信仰」の並存性(相補性)として示した。これに対して「魔術的なもの」というのは、こうした近代的な知の枠組から見れば「抑圧/被抑圧」関係というよりもさらにパラレルな次元にあって〈非在化〉されたもの、あるいは意味をなさない蒙昧なものとして表象される。それが例えば、「歴史的時間/反歴史的時間」の〈外部〉に生きてきた蓄積-循環するポリフォニー的な時間としての神話的時間や共時的時間、あるいは芸術的時間として部分的に化生するところの「非時間性」なのである。つまり、それはパラレルな時間であって歴史的時間を補完するような関係にはないのである。
後で触れるが、G.ベイトソンの言う「学習Ⅱ」(社会化=パラダイム形成プロセス)と「学習Ⅲ」(自己変容=創造プロセス)との関係もこれと相似的なものだ。つまり、「学習Ⅱ」のコンテクストによって「学習Ⅲ」を理解しようと試みるとき、「学習Ⅲ」は魔術的なものとして非在化されてしまうのである。なぜなら、それらは相互に自律した、異質なロジックでできているからなのである。
私はこのロジックの異質性によって近代においてもなお美術がその管理と去勢を免れてきたことを述べてきた。もちろん「学習Ⅱ」レベルにおいて制作された作品はこれに当たらない。しかし前稿の繰り返しになるが、レヴィ=ストロースがいみじくも指摘しているように、呪術=芸術においてはその贈与されるものの〈過剰性〉ゆえに、それを「指し示すことしかできない」造形物は必ず〈稚拙〉で粗野なものとしてしか顕現しえない。すなわち、「学習Ⅲ」レベルで得られた情報の〈過剰さ〉を芸術作品が「指し示す」構造そのものが見えなければ、それはたんに稚拙で凡庸な(もしくは天才的な)作品として自動的に判断されてしまうことになる。そしてこうした判断の自動性こそが「脱魔術化/再魔術化」というモダニズム的な枠組を支えているシステマティックな認知構造がもつ因習性なのである。
「魔術的なもの」というのはその枠組の〈外部〉にある。それは「非在」が「存在/不在」関係の、そして「非時間性」が「進歩/反動」関係の、〈外部〉にあることと同じである。要するに、それらの相補(相反)関係そのものが、一つのコンテクスト(合理性)にすぎないものなのである。とはいえ〈近代〉において、稚拙、紛い物、ナンセンス、迷信、余白など、どのように表象されようとも「魔術的なもの」というのは、やはりそこからは捕捉も否定もしがたくパラレルに残存しているものなのである。そこで先ずはモダニズムのなかからそれらを「理解」していく試みについていくつか述べてみよう。
【註】岡田 聡氏からの私信より。 2006年、岡田氏と有坂ゆかり氏をパネラーに迎え「再魔術時代のアート」というトークショーを開催した。(於;武蔵野美術大学)