中島 智(武蔵野美術大学/芸術人類学)
-目次-
序 一輪の野花を見立てるということ
1章 〈近代〉に仕組まれた非合理性
2章 再-魔術的芸術の視座
3章 society・外部・〈動物化〉
4章 情報化社会における〈欲望〉
5章 シミュラークルの次元
結び Inner-formationの風景
1章 〈近代〉に仕組まれた非合理性
「論文は、論理的、合理的に説明を重ねていく形式ですが、この形式を用いると、論理的な方法や合理的な方法ではとらえられないものが、切り捨てられてしまうのです。ところが‥「深い」ものは、むしろ非論理、非合理なもののなかにあるのですから、とすると論文という形式では、この「深い」ものを表現できないことになってしまいます。」(内山 節『「創造的である」ということ(下)』)
脱魔術化も再魔術化もともに合理主義という枠組のなかで表象されたものであることを前章で述べた。本章では脱魔術化を合理化、再魔術化を非合理なものへの再評価と言い換えて、その関係について述べておきたい。
T.W.アドルノは1968年の最終講義の中で「社会はますます合理化してゆくと同時にますます非合理の特徴を露わにしている」と述べた。すなわち、「目に見える現象として社会の結合力が強まるにつれ、これと連関してある深い層において、社会が脱統合化へ向かうさまざまな傾向が存在するのではないか」というのである。そしてこうした非合理なものの存在のみならず、その役割、その必要性について示すために、彼はE.メーヨーの研究を例示するのである。
それは、一つの生産集団において、一般的には合理的な組織化と一致団結こそが生産力を高めると考えられがちだけれども、実際はインフォーマルな対立要素としての非合理なる小集団の維持こそが全体の生産性を高めているという事実を明らかにしたものである。そこからアドルノは「社会の合理的な組織のなかには、合理的な理由から、非合理なもろもろの領域、すなわち集団間のまさしくそのような非合理な関係が組み込まれている」という現状とその必要性について指摘するのである。
この、単一の目的を共有することで成り立つ生産集団においてさえ非合理な領域が合理的に組み込まれているということ、いわんや社会集団をや、というアドルノの発想には説得力がある。とはいえ、このこともまた非合理なるものの社会的合理性を探るだけでは片手落ちにならざるをえないものだし、彼も述べているように、見かけの合理性の「深い層」に働いている力を看取しなければ決して把握されえないことなのである。こうしてアドルノは、いわゆる非合理な制度を「合理的な社会における残り物、たんなる『古代的な特質』、痕跡、残滓であって、生産力の発展や人間そのものの発展によって元来すでに時代遅れとなったもの」と看做す従来の社会学観に異議を唱えるのである。
「彼らは、よく引き合いに出される市民社会の合理性、つまり、科学の時代とか、科学的な社会とか、あるいは産業社会と理解されているものの一切が――産業社会という概念は元来、実証的つまり科学的段階という、古いコントの概念の延長にほかなりませんが――本当のところは相変わらず非合理なままである、ということを見落していたのです。」【註1】
この点には注意が必要である。マックス・ウェーバーが指摘した近代社会における脱魔術化とは、「たんに一つの目的-手段関係の合理性」、つまり限定的合理性において現れる表皮にすぎないものである。アドルノはここでさらに、社会というものは確かにその目的に限定された手段においては合理的だけれども、その合理性は人々の幸福という目的そのものの目的とは一切の関わりをもたないという指摘を加え、「これこそ、非合理性が維持されるばかりでなく、ある仕方では非合理性が拡大再生産されている理由」にほかならないと述べている。
だが、こうした限定合理的なる手段と、そこから関与されえない生きられる目的との関係は、私が「時間論」で述べた、抽象化された数量的時間(エピステーメー)と共時的な質的時間(テクネー)との対比を通してすでに見てきたものである。そもそも、近代的合理性も記号的クロノロジーもともに「都市」という生活条件が生みだしたローカルな表象形態であり、そしてその「都市」型の原理を普遍化させていこうとする運動がモダニズムと呼ばれているものなのである。
ではここで、この限定合理性としての近代合理主義にかんする特質を制度の側面と精神過程の側面から見ておくことにしたい。
鶴見和子は、近代化論は単系発展説であるとして、多系発展説としての内発的発展論を構想した。そして、その多系発展説の生態モデルとして南方熊楠の「南方曼陀羅」を挙げ、独自に解釈してみせている。すなわち、「異質な発展の経路と構造をもった社会および地域の住民が、一方を他方が凌駕したり支配したりすることなく、相互に共生しあう新しい組織論」としての曼陀羅モデルである。とはいえ、こうした共生型の組織は、実は「新しい」ものではなく、国家を生み出さない部族社会においても、支配・管理が不可能な厳しい自然と対峙する山岳地域の生活においても、持続されているものである。
つまり、鶴見の言う「新しい組織論」とは、先述の「再魔術化」という概念や単系発展的な近代型組織論にとって再発見されるべき新しさなのであり、それは彼女自身がこの曼陀羅の思想や民俗学的世界といった多元文化的な実在に回帰していくプロセスとも重なるものなのである。そもそも鶴見はアメリカで近代化論を専攻していた。そのフラットで単系的な枠組みによって逆説的に相対化されて見えてきたものが、多中心的、複合的、可変的に配置された組織論モデルであり、ダイナミックな「創造的流転」としての曼陀羅だったのである。
「南方曼陀羅の中心は萃点である。萃点はすべての異質なもののであいの場であり、到達点ではなく通過点である。その萃点の構造は、固定されたものではない。つねに流動しているものであり、同時に萃点は移動する。」【註2】
南方熊楠は「曼陀羅」とのちに通称されることになる説明図に付して、心不思議・物不思議・事不思議・理不思議といった精神過程について説いたが、この内の事不思議が、彼の民俗学に相当するものとなる。あるいは視点を変えれば、芸術がそれに相当する人々もいるであろう。それは〈モノ=情報〉という構造をもった働きなのである。この点については章を改めて、情報化社会との関わりのなかで詳しく述べることにして、ここでは近代的空間との関わりについて少し触れておきたい。近代的空間においては、その単系的な枠組みによって、世界は均質で見晴らしの良いフラットな世界として表象されやすい。それは言い換えれば〈見えないもの〉が見えないということなのである。〈モノ〉は存在としてクリアであっても、そこに潜在している非在なるものが不在化されてしまう世界なのだ。
私が先ほど、近代とは都市型の原理なのだと述べたのは、その条件として、多様な欲望形成が単一化・抽象化された基準によって塑形されざるを得ない都市空間という場において、近代合理主義(脱魔術化)が推し進められてきたという点を見落してはならないからである。つまり、「再魔術化」とは「脱-都市型」とも言い換えられるものなのであり、都市型の共約基準という慣習から超脱する、多様な欲望形成の問題にコミットしていく指向のことなのである。
話を戻そう。〈モノ=情報〉においては〈見えないもの〉が見えないまま忘却されてしまうのではなく、顕在態を通して潜在態が〈見い出される〉のである。鶴見は、インドから日本に至るまで、そこに曼陀羅の種類が膨大かつ多種多様に存在している点に注目しながら、次のように述べている。
「どうしてこんなにたくさんの曼陀羅があるのかといいますと、それは見えないものを見えるようにする、つまり、目に見えるものを通して目に見えないものを推し測るものだからなんです。」
これは魔術的な働きである。と同時に、すでにお気付きのように、ここにも先述した「見立て」の能力と技術が認められる。それが様々な文脈によって、ブリコラージュや純粋贈与、アレーテイアやテクネーなどに化生するものであることはすでに述べたが、ここでは多種多様な曼陀羅として現れているわけである。
私がアート研究において「無意識」を読み取らなければならないことを強調する所以も、創作活動のなかにこうした精神過程が必ず働いているからであり、また鑑賞行為においても必ず働いているものだからなのである。となれば、この〈内外の無意識〉が共鳴したり転移したりすることはあっても、それらを含めて理解(所有)することなど不可能であることは理解されるであろう。では次に、そこで立ち現れる魔術的なもの、非合理なるものが、人類の精神過程においていかなる要請(有効性)をもつものであるのかという視角において、一つのヒントを与える例を見ておこう。
G.ベイトソンは、人間が生物的条件のもとにおいて可能な精神過程を、「原学習」(LearningⅠ)から「学習Ⅲ」(LearningⅢ)に区別けして解説した。【註3】
「原学習」とは、あるコンテクストの内部に埋没しながら目前の問題に対処していくことを学習していく過程であり、次いで「学習Ⅱ」とは、自らの置かれているコンテクストを推測・把握しながらそれに同調して活動をおこすようになるための学習過程である。これらの過程においては、人は半ば自動的に自己証明の閉じたループを拡張していく。
このループは余りにも強力なので容易にその束縛から逃れることは難しいのだが、この「学習Ⅱ」の論理階型からの唯一の出口としてベイトソンが挙げているのが「学習Ⅲ」である。そこでは、これまで自らを支えてきたコンテクスト、パラダイムそれ自体の本質が、突如として理解される。それは自己変容を伴った深いレベルでの変化であり、代表的には宗教的体験や精神疾患の治癒過程において確認されるものである。そしてこの過程はきわめて創造的な成果を生み出すこともある反面で、きわめて危険な結果を生み出すものでもあるという。
これらの精神過程についてM.バーマンが簡略にまとめたものを以下に引用しておこう。
学習Ⅰ(LearningⅠ)個々の具体的問題を解決すること。
学習Ⅱ(LearningⅡ)学習Ⅰの速度の漸進的変化。学習Ⅰにおける問題のコンテクストの性質を理解すること。ゲームのルールを理解すること。パラダイム形成と言っても同じである。
学習Ⅲ(LearningⅢ)ある人物が、自分の持っているパラダイムすなわち学習Ⅱが、実は恣意的なものにすぎないことを突如悟る体験。その結果その人物は、人格の根本的変容を体験する。たいていの場合これは宗教的回心として経験され、悟り、神の顕現(God-realization)、大洋的感情(oceanic feeling)など、さまざまな名で呼ばれている。【註4】
本稿の文脈に置き換えた場合、「学習Ⅱ」とは、限定的合理性を生み出す或コンテクスト内での目的-手段関係およびその行動とも言い換えることが出来るものである。これはデカルト以降、近代の生産主義社会に到るまで、社会的な行動原理として推奨されてきたイデオロギーでもある。
とはいえ、ここで注意しておかなければならないことは、美術において「モダンアート」と呼ばれる言説とは、それ自体が語義矛盾、もしくは混同に他ならないということである。いみじくも熊倉敬聡が述べているように、芸術作品と芸術批評とは切り放して考えなければならない。すなわち「‥資本主義の論理に従っているのが実は歴史的事実としての近代の芸術ではなく、逆に近代芸術を規定する彼自身の批評的ディスクールであるという点だ。資本主義に媒介されているのは、芸術の実践そのものではなく、それを『モダニズム』として意味付ける言説の方なのだ」。これはモダニズム批評の言説を分析した論文の一部であるが、芸術の実践とそれに対する言説とを彼が明解に切り分けて語りうるスタンスには、自らを実験台とし、その自己変容をもって芸術に切り込む精神過程が決定的に作用しているのである。
「学習Ⅲ」とは、精神の根底的な再編である。すなわち、「“身にしみついた”前提を引き出して問い直し、変革を迫るのが学習Ⅲ」なのである。ベイトソンによれば、この「学習Ⅲ」のもっとも先鋭的なかたち、純粋な現れこそが創造性なのである。となれば、知識とその規則(ルール)を身につける社会化過程としての「学習Ⅱ」と、それらの知識が一つの規則(ゲーム)でしかなかったことを相対化させる「学習Ⅲ」との関係には、学習レベル(エピステーメー)と創造レベル(テクネー)との対比枠が含まれていると言うことが可能であろう。
さらに、この両者の違いを述べるとすれば、学習レベルにおいては〈不合理な圧力〉は単なるタブルバインドしか生じさせないものであるが、創造レベルにおいては〈不合理な契機〉こそが創造性を生み出すのだ。その契機(圧力)は、例えば禅の「公案」という技法においても、異文化体験においても認められるものであるが、これが創造性への契機、脱ダブルバインドのためのダブルバインドとして作用するためには、一種のジャンプが不可欠となる。それはベイトソンが「学習Ⅲは、遭遇する諸状況がそこから湧き出てくる、メタ状況を問題にする」と述べているように、複数の互いに異質なコンテクストを、メタコンテクストにおいて目撃し、操作することによって得られる「矛盾の超克」なのである。そしてベイトソンは、その「超克」という論理階型間のジャンプに成功した一頭のイルカの例を挙げている。
「一つの論理階型からその次の一段高い論理階型へのステップは、個々の出来事に関する情報から出来事のクラスに関する情報へ、あるいは個々のクラスを考えることからクラスのクラスを考えることへのステップである。」【註5】
もちろん、この論理階型間の横超は、すでに述べたように、世界を対象化していくエピステーメー型の理解によってではなく、世界に参与・没入していくテクネー型の自己化(自己変容)においてなされるものである。例えば、狩人が山野に没入しながら、一種の画定プロセスとして獲物を授かるように、芸術家もまた実世界に参与しながら、その内的な画定プロセスにおいて社会化された作品を具現化しているのである。
こうした事実がわからなければ、「芸術と社会を結ぶ」といった名目のもとにテクネー型の知性をエピステーメー型の知性(学習Ⅱ)に引き戻そうとし、山野よりも中央卸市場のほうが豊穣なのだと狩人に説いてまわるような愚を犯すことになりかねないのである。ともあれ、こうした論理階型間に横たわっている断絶とその超越については、一つの論理形式においては表現しえないものである。この点についてはベイトソンも十分に心得た上での言説であることをここで再確認しておきたい。
また、こうした論理階型の様相についての記述は、シャマニズムの世界から諸宗教の世界にまで広く認めることができるものだ。あるいは、このベイトソンの原学習、学習Ⅱ、学習Ⅲ、と対応させてみると興味深い一例として、中井久夫の積分的認知、比例的認知、微分的認知を挙げることもできるだろう。
中井は『分裂病と人類』のなかで、この微分(回路)的認知のことを「兆候空間優位性」と呼んで、この能力が「人間にとって現在もなお有用、おそらく不可欠でさえあり、人類の生存と歴史を支えている」ものであると主張している。そして、この認知能力、すなわち「失調すれば究極的には分裂病になって現象するもの」は、「自然的あるいは人間的環境(みずからの“内面”を含めて)と相渉る戦略」として、すでに人類に内在化されているものの誘導だと述べている。
ここに私は、汎世界的に認められる神話的思考や芸術的思考、その「野生の思考」(レヴィ=ストロース)や「徴候的知」(ギンズブルク)を重ね見るのである。実際、中井は、そうした「現前の周縁に揺曳するもの」や「渾沌・未分化なもの」に触れる臨床経験を通して、近代西欧型の対象化や二元論、その深層にある「言語の働きに精神を委ねる自己統合方法」という呪縛を看取し、〈近代〉の文化的ローカリティ(例外性)をも指摘している。こうした徴候空間を通した人類学的な視座により、彼の治療文化論は比類なき深みを湛えているのである。
あらゆる二元論、二項対立構造は必ず〈ねじれ〉を孕んだものであり、あらゆる対称性構造にも必ず〈破れ〉(外部)が示現しつづけているものである。それは人間の表象構造(マーヤー)に必ず〈裂け目〉として存在する原因水準のしわざなのである。原因水準とは、つねに認識作用の〈外部〉にあるものとして、非人間的な閾値として、徴候化作用や創造性を誘導しているものだ。例えば、インド哲学においては、この働きの彼方にブラフマン(変容力、創造原理)が観想された。しかしながら、こうした言い換えを繰り返したところで、それを直接記述することなど不可能である。
私がここで確認しておきたいのは、この、限定的合理性や局所的対称性の〈外部〉にある、学習レベルを超えた原理、すなわち生産主義社会において〈非合理〉として表象されながら消費社会においてもなお持続しているもの、あるいは「近代的空間」において多系でカオスモスな〈徴候空間〉として現れながらポストモダンにおいてもなお残存(survival)しているもの、そういった〈非時間性〉へと超脱していく事例についてなのである。つまり、それらは「再魔術化」という言説以降、現在どのようなかたちで立ち現れているのかという問題へと私たちを誘導するものなのであるが、これについては徐々に述べていくことにしたい。
【註1】 アドルノ(Theodor.W.Adorno)『社会学講義』細見和之 他訳 作品社(2001)
【註2】 鶴見和子『南方熊楠のコスモロジー 鶴見和子曼陀羅Ⅴ』藤原書店(1998)
【註3】 G・ベイトソン『精神の生態学』佐藤良明 訳 新思索社(2000)
【註4】 モリス・バーマン『デカルトからベイトソンへ 世界の再魔術化』柴田元幸 訳 国文社(1989)
【註5】 G・ベイトソン『精神と自然』佐藤良明 訳 新思索社(2001)