再魔術化するアート
― 〈技芸〉の不可知性と遍在性についての冗長なエッセイ ―

中島 智(武蔵野美術大学/芸術人類学)


-目次-
序   一輪の野花を見立てるということ
1章 〈近代〉に仕組まれた非合理性
2章  再-魔術的芸術の視座
3章  society・外部・〈動物化〉
4章  情報化社会における〈欲望〉
5章  シミュラークルの次元
結び  Inner-formationの風景


3章  society・外部・〈動物化〉


 個人は社会の構成要素ではあるが、間違っても個人の和が社会ではない。社会とは諸個人の公約数にすぎず、個人性の一部を集合させたものにすぎない。それは先述したように〈開かれた個人〉が社会(制度)よりもダイナミックであるという点、そして社会概念にとっての個人が必ずある基準によって取捨選択された〈モデル化された個人〉であるという点において説明できる。個人にしろ地域にしろ、その概念的共役とは異なる実在的な偏向性が、その偏向性によって生態学的な拡がりに開かれているという点は、自らを小社会としてモデル化(制度化)することで世界に参加したつもりになっている人々には気付かれにくいものである。それはあくまでも個人性を閉じたものとしかイメージできず、社会から個人に〈出る〉という過程を理解できない所以だ。社会を構成する基準とはつねにマイノリティ(非合理性)を例外化することでマジョリティ(合理性)を捏造する操作によって形成されている。そしてそれは周縁(多元性)と中心(一元性)とも言い換えられるものである。断っておくが、これは単なる左翼的レトリックと断じるべきものではない。
 私は以前、日本のシャマニズムにおいてシャーマンが患者をいったん周縁(多系構造)に出すことで治療していく過程を、成巫過程と同じ構造をもつものとして解説したことがある【註1】。これは近年流行ったさまざまなエステやセラピーなどにみられるような身体や情動への自己管理システムとは対照的な誘導である。なぜなら、管理とはつねに一元的なものが多元的なものを単元化していく働きであって、単元的なコンテクストからの横超ではないからである。
 呪術の話が出たついでに述べておくと、宗教というものが対象化されて「宗教」という今日的概念が生まれたのも近代である。それは脱魔術化の過程において相対化された。だが、その対象化は公共性や社会性に対する対象化(概念化)とは異なる想起の仕方をもつ。宗教の概念化がちょうど老いや死に対する想起に近似するのに対して(ニーチェ)、西欧文化における公共性の想起は、より個人主体による身分を越えた恋愛や職業選択の自由に近似した能動性(その結果として生み出される社会法則)を許容していた。ところが日本では一般に、公共性や社会性は「官」による「民」への管理システム(権力)と近似した概念として想起されることが多い。例えば、公共掲示板は個人が自由に活用できるものと考える人はいないし、社会は法や経済システムとして、人間不在のシステムとして想起されやすい。日本で「社会」という言葉が造られたのは明治10年頃(1877年頃)であり、それに遅れて「個人」という訳語も造られた。それ以前には日本において「社会」に相当する概念として「世間」が用いられてきた。とはいえ、この従来の「世間」概念はその後も用いられながら、しかも「社会」概念に日本特有のニュアンスを与えてきたのである。見田宗介はこの点について次のように述べている。

「伝統的な日本語の中で『社会』の語にいちばん近く、一般的であったのは、『世間』であった。この『世間』とは、柳田国男らの民俗学があきらかにしているように、元来、共同体の外部を指す語であった。共同体にとって外部の集列性の世界を指す語であるゆえに、それは『荒波』『冷い風』などの表象と結合しやすかった。日本人の『社会』のイメージは、『社会に出る』という言い方のように、このような『外部』としての『世間』のイメージと重なっている。」【註2】

 確かに、民俗学者・宮本常一も、世間師というのは「共同体の外部」を広く歩き、その見識を豊かに蓄えた人であって、尊敬される対象として描いている。ところが国語辞典では、世間は「自分の活動範囲」すなわち共同体内部として、世間師は「世間になれて悪がしこく、世わたりのうまい人」として描かれている。阿部謹也の『世間とは何か』でも同様の解釈である。これらの落差はおそらく、共同体が生きられている地域社会とそれが集列体と化した都市部との表象の差異なのであろう。国語というものはその制定プロセスにおいて都市型の表象形態を基準化しているものである。では都市における「共同体の外部」としての世間とは何かというと、もちろん都市では近隣住民との間ですら共同体が実現されにくい状況(不可知な外部性による包囲状況)が生じているわけだが、例えばワイドショーで放映される見知らぬ(自分の活動範囲外部の)場所で起きている殺人事件のような〈無縁性〉や、あるいは住宅地とならない、いわゆる堅気ではない得体の知れぬ人々が作り上げている都市の〈悪所〉を想起すればよいかもしれない。そうした悪所は「冷い風」が吹く孤立無援の世界でありながら、ある時にはそこがイニシエーションの機能をもつこともある。これが民俗学的な意味における世間なのである。
 ヨーロッパ各国のSocietyやSocieteなども、元来は共同体内部を指す語であったが、次第に「どの当事者にとっても疎遠な、(「物象化」された)『社会法則』を、客観的=対象的objectiveに存立せしめてしまう、という仕方で存立する社会」、すなわち集列体としての意味合いを強めていく。この意味段階で「社会」という言葉(概念)がヨーロッパから日本に輸入されたことを見田は指摘する。つまりもともと日本語に存在していた「共同体の外部」としての世間概念との意味複合と、社会という概念が輸入されたときのヨーロッパにおける意味段階との二重の要因によって、日本における社会という概念は無人の(疎遠な)システムとして表象されることになったわけなのである。そしてその世間(=社会)が「冷たい」のは、共同体がもっていた人格的な結合関係(相互扶助)から切り離された外部としての非人道的関係(利害関係)の世界というイメージによるものであろう。こうしたイメージは共同体社会から見た都市社会のイメージにも重なり得る。確かに、都市生活においては自然物から芸術作品といった共感のテクネーまでもが貨幣価値に換算されてしまいやすいため、時には金銭さえあれば何でも買えるといった経済原理主義を妄想してしまう人々さえ現れる。野菜や人間の生命を査定することがあくまでも仮設に基づくものであって、世界は経済原理でできているわけではないというリアルが社会法則の「物象化」によって見えなくなってしまう。つまり、都市生活者においてはエコノミーの外部にある純粋贈与の働きは覚知されにくいのである。

 さて、「共同体の外部」としての世間(=社会)は、そうした外海の「荒波」や野外の「冷い風」として表象される以外に、「無常」として想起されることもなされてきた。これは此岸、すなわち有情のものが生活する世界としての世間である。こうした概念が生じた、もしくは定着した所以もまた、世間(=社会)表象の外部性という構造に求められるものであり、ここでは世間(外部)から共同体を臨む視座が逆関数的に表象されているのである。民俗学では共同体外部から訪ねてくる客人(客神)をマレビト(神)と呼ぶが、それは彼岸としての世間から此岸としての世間を見るイメージ心理とも重なるものなのである。こうした眼差しを古東哲明は〈臨死〉と対照化させて「臨生」と呼び、次のように説明する。

「‥臨生するゆえに、この世この生が蘇生し、再魔術化をはたす。だとすれば、エレウシスの密儀の本義も、この世とまったく異質の別世界(他界)を観たり、確信したりすることではないことになろう。むしろ、そんな他界の疑似体験は、すでにこの世に遍在する〈ひかり=イデア〉や声にならない鼓動や存在感覚に、あらためて気づくための「青い鳥」。つまり「指方立相」。〈この世界〉がすでに語りかけ、《身》が暗黙裡に原受諾している光明(存在神秘)に気づくためには、ビジネス・ファームに埋没したぼくたちのふだんのまなざしのままではだめだ。まなざしをいったん、この世から引き離さなければならない。そのためのレトリックが、密儀というわけだ。だから、ふだんの生活空間の中に聞こえている変哲もない音とか響き。地上の輝き。遊体だった幼い日々に、だれもがそこを遊び場としていた愉悦の光景。つまりなにかが〈在る〉ことの稀有さ、不思議さ。それをあらためて自覚する回路や文化装置が、宗教(プラトン哲学も)にほかならぬことになる。‥〈身に覚えのある〉この世この生の存在の輝き(存在神秘)を、いま一度とりもどすこと。つまり「世界の再魔術化」(reenchantment=魅力回復)。それが、宗教的身体技法ということになるだろう。」【註3】

 言うまでもなく、この手の技法は成巫過程(イニシエーション)において広く認められるものである。それは世界の徴候化として、ごく初期段階に必ず通過する自己変容プロセスなのである。古東の述べる「再魔術化」、そして徴候化、それは私が本稿の冒頭で述べた「見立て」の能力とも深い関わりがあるものである。ここではそれを「共感」の能力と言い換えておきたい。かなたからの視線として実世界を観る世間(=社会)概念においても、この「共感」の能力は働いている。それはイマジネーションという以上に目撃なのである。そしてこうした「共感」の能力は、総べての人種・文化に平等に認めることができる。実は、この「共感」の能力を「共感」の技術にまで特化していくことで生まれたのが「アート(技芸)」なのである。ゆえに、汎世界的に芸術的活動が認められることは何ら不思議でもなく、アートが呪術やシャマニズム、そして神話的思考と類縁関係をもつことも蓋然性を疑いえないというわけなのである。
 「共感」という能力(技術)を介さない場合、アートは概念でしか成り立たないもの(フィクション)となる。見えるものを介して見えないものを顕わすこと、此岸にいながらにして臨生すること、それは自己変容型の世界認識(reenchantment)によってしか不可能である。ベイトソンが「学習Ⅱ」から「学習Ⅲ」へのジャンプとして解説した精神過程も、シャマンたちが異界への旅として解読してきた階梯も、実際はこうした技能によるものであり、それは感覚としてすでにpublic(共同体としての世間・一般の人々)にあまねく保持されているものなのである。だが、前稿でレヴィ=ストロースが指摘しているように、こうした技能によって顕われるアートは「稚拙」として表象されざるをえないものとなる。その要因は、純粋贈与された過剰な情報が社会的に塑形されざるをえない制作プロセスの側にのみ求められるものではなく、そうした魔術的なものに対する概念的解釈(社会的限定プロセス)にも求められるものなのである。
 この限定プロセスが人間中心主義を育み、人為性や意識化の優位を作り上げ、かの近代的な限定合理性(目的-手段関係の合理性)を特化させていったのが西欧型イデオロギーであった。すなわち、この概念操作によって、目的-手段関係の外部にあるもの、その根底に生きているもの(基層性)や、その目的の目的として存在するもの(至高性)は、ともに魔術的なもの(非合理)と看做されてしまうか非在化されてしまうのである。そこでは限定態としての社会化が世界認識を稚拙化するという構図(ベイトソン流に言えば「学習Ⅲ」を「学習Ⅱ」過程で理解すること)が現れ、そのことが芸術作品を社会的コンテクストのなかで過大評価させたり過小評価させたりするヨーロッパ型の「鈍感さ」(レヴィ=ストロース)としても現れるわけなのである。

 ドゥルーズ=ガタリが『アンチ・オイディプス』のなかで「われわれは、およそ合理性が非合理なることを信ずるように、欲望そのものを信じているのだ。その理由は、欲望が渇きや憧れといった欠如であるからではなくて、欲望を生む生産であるとともに、生産を生む欲望であるからである」と述べている点も、その背景にあるヨーロッパ型の社会法則を考えなければならないであろう。すでに見たように、そこではあらゆる個人、精神過程、欲望が「物象化」された生産システムに回収されてしまう傾向をもっている。だからこそそこでは欲望でさえ「欲望機械」としていったん社会法則から切り離され、あえて自律させる必要があったわけであるし、そこでもまた生産システムへの回収だけは免れえない状況にあるという段階を、それは如実に示している言説なのである。
 現代の日本における社会(=世間)概念もまた、個人やその友愛関係から切り離された生産=消費(贈与=交換)システムでもあることを考えると、そこでは欲望機械として仮想された働きもすぐさま社会的欲望に接続させられ、同時にその反転様態(鏡像)としての個人主義的な個人(閉じた個人性)を生産させているさまが浮かんでくる。とはいえ、それは世間の外部性とともにたてまえの個人性として仮想されたままであることは否めないし、システム論がそのジレンマに直面し、近代において禁じられた至高性を回避しながらさらにその外部を求めるときに「動物化」というヴィジョンも生まれてくる。ただし、ここで注意しておかなければならないのは、この段階での「動物化」とは西欧的もしくは近代的な動物観、すなわち欲求の直接性しかないとされる因習的な動物観を足場としながらも、それとは一線を画する試みとして、つまり近代末期に生じた脱近代主義や再魔術化とも近接した言説において用いられるという点である。ドゥルーズ=ガタリの場合、この「動物化」を、近代が〈社会的欲望=欲求〉の直接性のよって抑圧してきた様態から解放するために、人類学的地平へ開いていったのである。

「群れの起源は家族や国家の起源とは似ても似つかない。家族や国家とは異なる内容の形式や表現の形式を動員しつつ、家族や国家をひそかに突き動かし、外からおびやかし続けるところにこそ、群れの起源が求められるからである。群れは動物の現実でもあれば、人間が動物に〈なる〉という生成変化の現実でもある。」【註4】

 ここまでくると、「群れ」が日本の世間概念と近似したものに見えてこないだろうか。それは、共同体(家族や国家)や自己(意識レベル)の外部にありながら、動物性の残存として内部から共同体を突き動かしつづけている。そして、この「人間が動物に〈なる〉という生成変化」は、戦場や旅やイニシエーション的空間として、見えない外部性(深層)として、つねに文化のなかに仕組まれてきたものである。やはりその典型的な例が狩人やシャマン、そして技芸民もしくは技芸的空間であるが、ドゥルーズらはここでは魔術師を挙げている。すなわち「魔術師は、野原や森の境界で、常に変則者の位置を占めてきた。魔術師は境目に出没するのだ。魔術師は村のボーダーに、あるいは村と村のあいだにいる。重要なのは、魔術師が同盟や契約と親近性をもち、これによって系統関係とは逆のあり方を得ているということだ。変則者との関係は同盟の関係なのである」と。それは、世界を徴候化する魔術師のあり方が、ヒエラルキーにではなく共感の能力(アート)によって、流動的なコミュミティ(粘菌的な生成変化)を実現していることの譬喩である。
 この同盟および契約というのは、網野善彦流に言うならば権力の届かない共同体の外部(萃点としての市庭から山野)において特異なやり方で交渉がなされる徒党や組合であり、それは共同体的人格においてはときに別体系・他者性の権化である動物とも交わされる。また、日本の伝承においては、人間が動物に〈なる〉ことを神化として表象してきたのに対し、ヨーロッパにおいては失墜として語られるケースが多い。こうした動物観の差異は、その同盟や契約の位置付け(解釈)を〈聖なるものとの契り〉から〈悪魔との契約〉まで大きく頒つ要因ともなってきた。そしてそれは象徴的に性愛観にも反映している。ところがドゥルーズらは、共同体(村)の「内/外」を「洗練/粗野」に対応させるヨーロッパ型の限定的合理性や人間中心主義から出ようとすることで、図らずも広大なオリエント的世界観ににじり寄っているかのようである。そして彼(ら)は「生成変化が情動そのものであり、欲動それ自体であるということ、そしてこれは何の表象[代理]でもないということ」を強調する。余談になるが、ここでベイトソンならば、欲動(無意識)にはそれ独自の論理があり、それが芸術的思考を形成していること躊躇いなく附記するはずである。
 さてドゥルーズらもまた、先述の「臨生」(自己変容による再魔術化)と同様に、動物への生成変化というものが、たんに外部コードとしての〈動物そのもの〉に見い出されるリアリティなのではなく、「みずからの内部に、つまり突如われわれをとらえ、われわれに〈なること〉をうながすもの」にリアリティを見い出す働きであることを指摘している。そしてその内在的帰結であり宇宙的な定式として「知覚しえぬもの」を挙げる。すなわち「知覚しえぬものへの生成変化は、さまざまなことを意味する。知覚しえぬもの(非有機的なもの)、識別不可能なもの(非意味的なもの)、そして非人称性(非主体的なもの)」とされるわけだが、それは彼(ら)自身の言い換えにおいても「無意識」のことであり、また「欲望」のことなのである。

「分子状、非具象的、非象徴的となった無意識が、あるがままの姿でミクロの知覚に所与として与えられる。欲望が知覚の領域に直接の備給をおこなう。そこでは知覚しえぬものが、欲望そのものの知覚された対象として『欲望の非具象性』としてたちあらわれる。」

 動物化の帰結としての無意識(欲望)。となれば、世間(群れ)とはpublicの無意識であろう。ではドゥルーズらにおいて共同体のボーダーに位置付けられる技芸空間とはどのようなものなのであろうか。彼(ら)もまた「芸術」というものは概念レベルにおいてはフィクションにならざるをえないことを指摘した上で、「画家や音楽家は動物を模倣するのではない。画家や音楽家が動物に〈なる〉と同時に、動物のほうも、大自然との協調がきわまったところで、自分がなりたいものに〈なる〉のだ」と述べている。〈なる〉側も〈なる〉対象も、ともに流動的な変容状況に投げ込まれてしまわざるをえない技芸空間においては、対称性はおろか主客さえも知覚不可能となる。しかしながら、これこそが生成変化なのであり、実際のところ、自己変容や生成変化に「帰結」なるものが存在しえない所以なのである。

【註1】中島智『文化のなかの野性 芸術人類学講義』現代思潮社(2000)
【註2】見田宗介『社会学入門 人間と社会の未来』岩波新書(2006)
【註3】古東哲明『他界からのまなざし 臨生の思想』講談社(2005)
【註4】ジル・ドゥルーズ+フェリックス・ガタリ『千のプラトー 資本主義と分裂症』宇野邦一 他訳 河出書房新社(1994)

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