中島 智(武蔵野美術大学/芸術人類学)
-目次-
序 一輪の野花を見立てるということ
1章 〈近代〉に仕組まれた非合理性
2章 再-魔術的芸術の視座
3章 society・外部・〈動物化〉
4章 情報化社会における〈欲望〉
5章 シミュラークルの次元
結び Inner-formationの風景
4章 情報化社会における〈欲望〉
欲望は必要に先行する。それは産業社会であろうと情報化社会であろうと変わらない。それはまた近代も非近代も別けるものではない、人類の〈人間性〉形成の根幹にある摂理(原因水準)なのである。欲望はもちろん理由に先行する。前稿の冒頭で述べた「アートとは何か」という問いの遅延性はここに由来するものなのである。
ここで再びアドルノに登場してもらおう。彼はすでに概説したように「制度の非合理性、私たちの社会の非合理な契機はそれ自体、存在し続けている非合理性の関数〔機能〕としてのみ理解できる」と説いたわけだが、このことを理由にしながら生産主義的合理性(制度)のなかで失われていく欲動について、次のように述べている。
「(フロイトの)『生活の必要 Lebensnot』とは直接的な欲動充足を断念させる強制であり、この強制は、心的抑圧のメカニズム総体のなかで、またそれがもたらすあらゆる心的作用において、継承されてゆくものです。‥つまりフロイトがそのことを十分に説明したかどうかに関わりなく、客観的には、この事態の背後に潜んでいるのは、これまでのあり方での社会がすべての成員に十分な生活手段―-もちろん、最も広い意味での――を作り出してこなかったということです。さらに敷衍していいますと、潜在的にはあらゆる人が、現在の文化的『水準』で十分な生活手段を得ることが可能かもしれないこんにちですら、社会的な生産の関係によって、生産関係によって、したがって端的に言えば所有関係の秩序によって、その実現が阻まれている、ということです。」
アドルノは生産主義的な支配と労働規律の強要によって「欲動の放棄」が人々に強制されてきたこと指摘している。ただし、この欲動はフロイト的には性愛的欲動と看做されるものであった。ともあれここでは基層性とも至高性とも言い換えうる欲望の先行性が、必要という社会的関係において疎外されていく構図がわかりやすく説明されているのである。ところがこのあと、アドルノは「この『生活の必要』という概念をひとたび、絶えず継続され再生産されている欠乏状態として具体化するならば、心理学的な過程と称されるものの核心に、しかもその起源において、社会的な契機が含まれている、ということが明らかになります」と述べ、この欠乏状況を生産している社会的関係と心理過程、すなわち抑圧と抑制とを同調させてしまうのである。
しかしこの欠乏状況とは先に引用した欲動(欲望)というよりも、社会的欲望、すなわち欲求に値するものであって、その合理的限定において直接性を帯びたものなのである。もちろん本稿でも述べているように心理過程の起源において「社会的な契機」はすでに含まれているものだが、それは欲求(動物的直接性)においてではなく、欲望(動物化=生成変化)の結晶過程におけるそれなのだ。
さてここでアドルノは、「個々人」を対象とする「個体化という現象」というものが一般的には「社会との対立項」として社会学の研究対象から外されがちだけれども、個体化が社会という装置によって再生産されているものであり、それは「社会自体が、個々の契約者間で交わされる交換という支配的な形態によって、個人主義的に構成されているからです」と述べている。たしかに交換関係や所有関係という秩序と個人主義との共犯性については同感である。しかしながら、これは先の社会的限定によって生産される欠乏状況(欲求)がもたらす心理過程(個体化)にすぎないものだ。つまり、それは個人性(私性)全体の仕組み、その起源としての欲望の問題に適用されうるものではなく、あくまでも「個人主義的個人」のレベルにとどまらざるをえないものなのである。
この生産主義的状況のなかでW・ベンヤミンは「いったいアウラとは何か?時間と空間とが独特に縺れ合ってひとつになったものであって、どんなに近くにあってもはるかな、一回限りの現象である」【註1】と記した。そこでは写真や映像といった機械的な複製技術によって芸術作品の真正性にかかわるアウラが去勢されていく過程が説かれている。ここで特色的な点はベンヤミンが対象の側にアウラを求める〈生産主体〉的思考を示していることである。そこにはきわめて生産主義社会の影が濃厚に感じられるのである。すなわち、〈消費主体〉の側から対象に対して積極的にアウラを投射していく働き(欲望)については殆んど問題とされないのである。
生産主義社会においては、その力学によって「作品が持っているアウラ」については語られても「鑑賞者が作品に与えるアウラ」については余り語られることがなかった。仮に語られたとしても、それは客観性という言説のもとに隠蔽されながら語られることが多かった。複製技術時代以降の、さらに高度情報化社会を迎えた現在、私たちの生活環境には大量のレディメイドとメディア情報が溢れている。それは単純に、アウラ喪失の時代と考えられるべきものではなく、むしろこうした現況においてこそ顕在化されてくるのが〈人間がモノにも与えるアウラ〉という働きなのである。私は前稿でジェームズ・クリフォードのいう「芸術=文化システム」が真正性(ブランド)と非真正性(ノーブランド)とを分類しつつ、前者が後者を取り込みつづけている「真正性を生み出す機械」について触れたが、こういった権力システムにおいては私たちが実生活で用いたり飾ったりしている民具、雑器、ツーリストアートなどの生活財の大半(リアル)が〈非真正〉側に位置付けられてしまうことになる。だが、実際は、それ自体に〈真正性〉や〈作品性〉を意識されないまま購入された商品にたいしてもアウラは付与されていくものなのである。このような真正性の本末転倒に陥らないためにも、今日のマテリアリティ研究においては、〈再アウラ化〉という精神過程を踏まえつつ、機械的な産業社会において量産されコピーされつづけているシミュラークル(模造、擬態)を無視することはできないのである。【註2】
この〈再アウラ化〉という働きとは元来、モノに愛着をもたせ(記憶)、ある対象を評価させ(投影)、美術館や博物館に陳列された他者の記憶を礼拝的価値や展示的価値として鑑賞(共感)することなど、「芸術=文化システム」以前から以後まで貫いているものなのである。
一例としてツーリスト・アートを取り上げてみよう。今ではどの観光地にも民芸品と称される土産物が置かれてある。これらをたんにイミテーションとして、展示的価値以上のものを自ら禁止し、アウラの転移を抑圧しようとするときに働いているものとは、じつは教養主義にすぎないものなのである。しかしそれらが実際に実生活に取り込まれたさいには、その布置の選択から記憶のなかの位置付けにおけるまでアウラの付与はなされていく。またそれらをイミテーションと承知したうえで購入した場合でも、それを購入した当事者にとってはその土地や記憶を〈いま、ここ〉に媒介する機能をもつ以上、その意味において真正品なのである。しかもどんなイミテーションであってもその出自性が残存していることはあるものだし、それさえ失われた場合であってもその場所(観光地)に置かれることで独特なアウラを帯びるものである。それらはよく出来た土産物と同様に特異な(括弧つきの)オリジナルとして購入される。もちろん、その土地の文化に決して明るくはない(ゆえに観光する)外来者であればそれらを始めからオリジナルと看做して購入することもままある。それは土産を買うという欲動に含まれる象徴的価値以上に、真正品としての礼拝的価値さえ帯びるものなのである。だが、みうらじゅんの「いやげ物」が明らかにしたように、そこにクールな教養主義を絡めながら土産物自体を記憶から切り離して眺めるとき、それらは極めて奇妙な存在と化すものだ。また赤瀬川原平は、そうしたありようを「超芸術」と名付ける捨て身のアイロニーを展開してきた。ともあれ、こういった心理作用というのは実際のところツーリスト・アートに限られるものではなく、既にさまざまな出自をもつ(あるいは出自の不明な)複製品というものは市場に氾濫しており、私たちの生活空間もまたそうした複合的様態のなかにあるわけなのである。
民具とか民芸と呼ばれているものとは私たちの生活空間に位置付けられている生活財のことである。ただし宮本常一が「民具学」を提唱したさいには機械産業的なモノよりも手工芸的なモノがおもな対象とされていた。とはいえその手工芸の作者は職人に限られるものではなく、使用者側のカスタマイズやモノ真似も含んでいた。「民藝」を唱えた柳宗悦の場合は、工人に学ぶ姿勢をとりながらも美というアウラを付与していくことで鑑賞的価値を作り上げていった。これらもまた実生活から切り離された博物館や資料館などの空間に陳列されることで奇妙な存在感をもつことになる。すなわち、生活空間からの離脱が民具をして過去のモノ(資料)と表象させてしまう効果をもち、民藝をしてブランド的価値(資産)を表象させてしまうこともある。つまり、既に先述の「芸術=文化システム」へ参入しているということである。この問題にいち早く気づいた水尾比呂志は「機械産業製品の民芸性」(『現代民藝論』1968)を著したが、その後これを展開した後進研究者を私は知らない。民具学の方面でも最近になってやっとこの問題にメスが入りはじめたばかりである。【註3】
建築を例にして複製品の問題に触れておくとすれば、過去の民具学や民藝というのはいわば特注一戸建ての民家を対象としてきたと言える。そこに大量生産品、レディメイドとしての建て売り住宅やマンション(団地)が生まれてきた。これは民具ではないと言えるであろうか。マンションも構造的には長屋や間借り下宿、あるいは白川郷や欧州風建築などの出自が求められるものであるし、非住居建築(倉庫や工場)と比較すれば明らかになるようなヒューマンスケールを保っている(ちなみに工場は熱力学とも関係した構造物である)。そして入居(購買)されたマンションは、そこが複製品的な同一規格で作られていればいるほど住人各戸の生業や出自や性格を顕著に映し出してしまうものなのである。これもまた複製品が消費主体によって〈再アウラ化〉を起こす一例である。
欲望もまた、近代主義がフラット化した思考のなかで顕著にその姿を顕わしやすいものである。すなわち合理化のなかから、その機能や必要に先行していた欲望が逆説的に輪郭をもって立ち現れるのである。そうした現象を再魔術化と呼ぼうがなんと呼ぼうが構わないが、そこには生産主義(生産主体)的視点を、今日の消費化(=情報化)社会における消費主体側へと転回する糸口も現れる。佐藤浩司らの調査によって現代人の一戸当たりがもつ生活財の膨大な質量が明らかにされたが、このことはいわゆる生活必需品にあらざるモノの質量の膨大さを物語るものだ。すなわち機能をもたないデザインやモノが生活空間に相当数含まれているという現状である。そうした生活財の様態をここでは「モノ=情報」と呼んでおきたい。
また、先述の〈欲望の先行性〉という観点からのみ見た場合には、嗜好品は生活必需品に先立つという逆説さえ可能となるかもしれない。ともあれここでは真正/非真正(本物/偽物)という関係性(文化システム)そのものが無化されることだけは確かなのである。なぜなら、アウラや欲望というものは真正性から自由なものだからである。
さてここまでは、オリジナル/コピーの関係において脱アウラ化された「商品」が欲望によって多様かつ個別に再アウラ化されていくプロセスについて述べた。要するにそこでは消費=需要側の主体が生産=供給側の主体を祭り上げたり、そのオリジナリティを羨望したりする必要もないのである。芸術においても、作品とは作者でさえ所有不可能な欲望(無意識)の賜物なのであって、それを記号操作によって剥奪しようと試みる受容者といった構図(神学性)そのものからそろそろ解放されてしかるべきなのである。作者が作品について語りえないのは、それが「記号」でできてはいないからだということについては既に述べた通りであるが、芸術作品とは〈欲望のシミュラークル〉なのであり、もとより意識そのものが〈無意識のシミュラークル〉としか生きられないものなのである。そして、シミュラークルの空間においては欲望のもとに総べては並列(平等)となる。ではここで、欲望と資本主義システムにかんする見田宗介の記述を見ておくことにしよう。
「消費社会としての資本制システムの存立の前提としての――〈欲望の抽象化された形式〉は、歴史的には、「二重の意味で自由な」欲望の主体として実現される。第一に欲望主体の、伝統的な共同体とその積層による限定との固定性からの解放。第二には、充足手段との直接の結合からの解離――共同体によって保証され、あるいはいっそう原初的には直接に自然によって与えられていた、充足の実現手段から引き離され、市場関係(消費財市場における、対象の商品としての購買)という回路をとおしてしか、自己を充足することのできない欲望の主体の大量的な創出。このようにして「消費社会」は、資本制システムの論理自体の、消費の領域への貫徹であり一般化である。」【註4】
資本主義はその消費化の領域によって欲望主体を解放する。これは言い換えれば〈目的-手段〉関係としての社会的欲求が、必要(文化条件)に先行する消費行動を通して〈目的-手段〉関係の外部にある欲望主体に連接していくさまを述べたものである。ここでは消費行動がブリコラージュとなる。それは市場関係における大量購買であったり、「モノ=情報」化としてのポイエーシスであったりするような、必要(機能、意味)からの離脱なのである。もちろん、そうした欲望(と消尽)への離陸は、ふたたび神話化作用として文化システムへと遅延されていくものだ。とはいえその過程において、一時的に欲望形式は欲望主体(原因水準)として化生するのである。つまり、私が序章で述べたブリコラージュ(見立て)、そこにあるモノを通してそこに何かを見立てたり(創造性)、それを何かの化生として捕捉したり(宗教性)、時間を超脱した記憶を重ねたり(神話性)する働きは、都市型の消費化=情報化社会においては「消費の領域」によって実現されると見田は述べるのである。
これは一見トートロジーのようであるが、確かに精神過程がそうであるように、一つのシステムはただ相対的に別のシステムと交換したり搾取したりすることのみで発展するのではなく、自らの外部としての基底を更新しつづける作用ももつものであろう。自己の、すでに自己とさえ呼べない深部を無視した自由など本来ありえないように、そこに欲望主体の解放がある。ゆえに見田は「人びとの日常の生の内にあるもの、歌や笑いや性や遊びのさまざまな形、他者や自然との直接の交歓や享受の諸々のエクスタシーは、〈消費〉の原義それ自体であるが、つまり〈他の何ものの手段でもなく、それ自体としての生の歓びであるもの〉だけれども、それはどのような大量の自然収奪も、他社会からの収奪も必要としない」というヴィジョンを述べ、その〈消費〉の原義への着地を説くわけである。となれば、ここで生活必需品と看做されない芸術の本義が主題化されてもよさそうなのだが、ここでは「美としての情報」と「至高なもの」というヴィジョンについて、語りえぬものとして少々触れられるのみである。
「非物質的なものの空間への視界の解放という、情報化社会の理論の最も大きい射程を徹底して展開するなら、この情報のコンセプトの核心にあってコンセプトを反転させるもの、知と感受性と魂の深さに向かって、白日のように経験されているものでありながら名を与えられることのないものの領野に向かって、情報というコンセプト自体が自分を踏み抜いてゆくほかないだろう。」
私が先述した、マテリアライゼーションとしての「モノ=情報」はここに関係している。それは所有化(概念化)ではなく、消費化(情報化)を通しての〈欲望の領野〉への誘導なのだ。その、いまだ概念化されていない無意識的な領野は、〈生産/消費関係〉の外部にある〈純粋贈与/消尽〉を再現前化させ、あるいは近代主義的な〈効用・手段・機能〉的な「情報」ではなく、その外部としての「美としての情報」や「至高なもの」のうちに拓かれているのである。
【註1】多木浩二『ベンヤミン「複製技術時代の芸術作品」精読』岩波現代文庫(2000)
【註2】私はこの問題について2006年に「複製技術時代の工芸・民藝・民具」というシンポジウムを企画開催した。(パネラー;北澤憲昭氏、水尾比呂志氏、朝倉康二氏 / 於;武蔵野美術大学)
【註3】今年(2007)は宮本常一生誕百年にあたる為、私なりのささやかなオマージュとして「ツーリスト・アート」展を企画する予定である。
【註4】見田宗介『現代社会の理論 情報化・消費化社会の現在と未来』岩波新書(1996)