中島 智(武蔵野美術大学/芸術人類学)
-目次-
序 一輪の野花を見立てるということ
1章 〈近代〉に仕組まれた非合理性
2章 再-魔術的芸術の視座
3章 society・外部・〈動物化〉
4章 情報化社会における〈欲望〉
5章 シミュラークルの次元
結び Inner-formationの風景
5章 シミュラークルの次元
シミュラークルの今日的有効性とは、生産主体をオリジナルと位置付けるオリジナル/コピーの構造から、消費主体(出自の不明瞭な欲望主体)の側へと出ることである。そこではオリジナルの消失とともに全てがあらたにオリジナルとして息を吹き込まれる働きが顕在化され、この〈再アウラ化〉こそが情報化社会における魔術的側面とも言うことができる。芸術的思考もまた魔術的出自をもちながら近代においてもなお残存してきたものである。だが芸術という次元は近代合理主義的な生産次元とは平行関係を保ってきた。つまり近代社会においても芸術が絶滅しなかった理由は、そのコードの異質性(ゆえに保たれる無縁性)によるのである。そしてこの近代的、脱魔術的思考から改めて芸術をみたとき、それを対象化するという操作がなされる。だが、間違えてはならないのは、この対象化をもって近代が芸術を発見したと錯覚してしまいやすいことで、これは正確にいえば芸術を概念化(フィクション化)しただけの話なのである。
芸術的生産は、つねに社会的生産関係からは捕捉しがたい捩じれた位置にあった。このことはシミュラークルについても同様である。生産主義的なオリジナル/コピーの関係にとってシミュラークルは異なる次元(パラレル・ワールド)として残存しつづけてきた。ところが既に見てきたように、生産主義社会が消費=情報化社会に移行していくにつれて、内発的に日常のシミュラークル化が生じてくることになった。そこで近代を通じて社会的次元とシミュラークル的次元との間に横たわっていた隔壁が溶解しはじめているのである。この現象をもって再魔術化という概念が用いられるのであれば、私は抵抗なく受け入れることができる。
メタファーという働きもシミュラークルの次元として考えることが可能である。序章で触れたように、ベイトソンはメタファーの三段論法(草の三段論法)が生物界の組織化から精神過程まで支えてきたことを看破している。もともとベイトソンの父親ウイリアムはメタメリズム(ダイナミックな非対称が生みだしながらなされる反復)という生成変化を研究した遺伝学者であり、遺伝とは物質そのものではなく物質を再現する能力(傾向)であるという視点をもって生物形態を理解した人物であった。この遺伝情報学がベイトソンの情報理論の核に生きつづけている。ベイトソンは無生物から甲殻類、人間に到るまで、一貫して情報を探究し、そこに精神過程を認めている。ことに人間のあらゆる表象や認識にかんしては、生命プロセスの一部として俯瞰する臨生的なまなざしが特色的とも言える。同様に、彼は「すべての動物行動、すべての反復性をもった解剖学的構造、すべての生物学的進化は、論理学者が好むと好まざるとにかかわらず、それぞれの広大な領域内部で草の三段論法によってつながりあっている」と述べ、メタファー的思考こそがあらゆる前言語的領域でイデアのつながりを伝え合う主要なコミュニケーション様式に違いないと推測している。またベイトソンは学校で習う「名詞」にも触れて、それは一般に「物の名前」と教わるものだが本当は「物ではなく関係」という観点が示されるべきだと述べているが、これもまた「モノ=情報」から情報を引き剥がし、メタファーの三段論法やその反復生成によって成り立っている生物構造やコミュニケーションやシミュラークルの次元までもが非在化されてしまう元凶の一つと考えることのできるものだ。
「もちろん、すべての前言語的ならびに非言語的コミュニケーションはメタファーおよび/ないし草の三段論法によるというわたしの主張が、すべての言語的コミュニケーションが論理的ないし非隠喩的だという意味でないことはいうまでもない。メタファーがクレアトゥーラ(記述の対象となる現象自体、差異、対化、情報といったものによって支配され決定されるような説明世界)全体を貫くものである以上、すべての言語的コミュニケーションは必然的にメタファーを含む。」【註1】
論理に対するメタファーの先行性に異議を唱える人はおそらく殆んどいないであろう。中井久夫は『治療文化論』のなかで、統合失調症(分裂症)を「人類に非常に基本的に有用不可欠なものの少しのズレではないか」と考えたが、ベイトソンもまた「詩、芸術、ユーモア、宗教が、分裂症と同じく草の三段論法びいきである」と述べ、メタファーに近接した芸術的知性や神話的知性がきわめて生物学的な位相に根差したものであることを指摘している。これは歴史家ならば「古代的なもの」と表現するものであろうが、実際はベイトソンの述べるように全ての形態、精神過程、生命プロセスのなかに残存している能力(傾向)なのである。私の述語で換言するならばそれは非対称なる原因水準(裂け目)ということになるが、それはメタメリズムとして原理的に内包されている非人間性(外部性)、もしくはシミュラークルの次元ということができるものである。
G・バタイユは『太陽肛門』のなかで「世界はパロディ的である」と述べた。このパロディ(模像、シミュラークル)思考を引き継いだP・クロソウスキーは、それがあるオリジナルの模像ではなく、それ自体が原初的にそれ自身の模像であり、それ自体がそれ自身(物自体)のシュミラークル的な鏡像であるがゆえに〈それ自体〉が断片としてしか成り立ちえないことを看破した。ではここで、バタイユの〈思想的シミュラークル〉の場所に自らを置換し、そのトポスから発せられた湯浅博雄の言葉を引用しておくことにする。
「〈シミュラークルとして生きる〉ことは副次的でも派生的でもなく、それこそ〈根源的〉なのだ。だがそれは、通常の意味での始源でも根源でもない。〈根源的に〉非根源的だ。〈そもそも最初から〉擬態的であり、反復的である。こういう次元における擬態性や虚構性は、オリジナルを模倣し、繰り返すことではない。始源の繰り返し、祖型の反復ではなく、真の現実をみごとに映す似姿という仮構の現実でもない。」【註2】
至高なものに触れようとする宗教体験や、そうした〈欲望〉の延長として現れる芸術において、〈シミュラークルの次元〉は根源的(非根源的)に内包されているというクロソウスキーの視座と重なる思考がここにみられる。それは通常の意味で表象されているような〈自己〉を消失させ、シミュラークルとして生きる偏務(断片)性を恢復することなのである。もちろん、この偏務性とはすでに述べたとおり、生態学的なつながりに開かれるものであり、一種のエロティシズムとも換言できるものなのである。つまり、シミュラークル的鏡像関係とは決して同語反復的なループではなく、自己(人間性)の破れを通して〈欲望〉を恢復しコミュニケートしようとする、生成変化の運動なのである。
この点について彼は「演劇・文学・音楽・美術が最も本質的なところでコミュニケートしようとすることは、なにかしら激しい力とパッションが私を超えて貫くような経験、私の定立性が破られて変容する経験、至高な瞬間の経験である」と述べている。では、なぜ芸術活動において「私の定立性が破られて変容する経験」が生じるのであろうか。それは前稿でレヴィ=ストロースも述べているように、あるいはJ・ラカンが芸術について述べているように、芸術家の主体がそれ自体で自己同一性(対称性)のうちに完結することの不可能な〈過剰性〉もしくは〈純粋贈与〉に貫かれざるをえないからなのである。そこに対称性の裂け目(破れ)が示現する。湯浅は続けてこう述べている。
「私が(その能力を通じて)関係することの可能な関係、つまり真の現前性という関係においては生きられないまま経験される余白の領域(過剰)を含んでいる。いかにもがこうとその〈シミュラークルとしてしか生きられない〉次元を内包している。それゆえそうしたなにかしら至高なものをコミュニケートしようとする芸術は、原理的な必然として擬態性や虚構性を不可欠なものとして、独特な比喩性を当然なこととする。」
〈私〉というマーヤーを仮構しつづけている〈真の現前性〉には、それを生きることのできない〈余白の領域〉、すなわちシミュラークルの次元が必ず潜在化されている。芸術がその過剰なる〈余白の領域〉とコミュニケートするとき、そこではシミュラークルを生きることが必然的かつ不可避に求められ、またシミュラークルを生きる技芸空間に特有なメタファーの働きが〈当然なこと〉とされることになる。つまり、その〈領域〉や〈働き〉に附随する芸術作品について、〈私〉や〈作家〉が責任を負うことなど端から不可能なのである。この点を理解しておかなければ作家に自作品についての説明責任を求めてしまうような愚を犯してしまうことになる。ともあれここで興味深いのは、先のベイトソンがメタファーの原因レベルを「100万年」以上前からと見積もっているのに対して、バタイユ=湯浅の説明では、それを社会的な欲望(=欲求)の外部にある、何かしらの純粋贈与をもたらすシミュラークル性や、その徴候を受け取る主体のシミュラークル性としてメタフォリカルに言説されていることである。とはいえ、実はこれらもまた同一の〈根源的〉な働き(能力)なのである。
また、湯浅は「文化・芸術は、人間の労働や作業や〈理性〉的活動が結晶化した成果である作品(生産物)を〈消尽する〉欲望、あるいは〈純粋に贈与する〉という欲望に深く結ばれている」といい、この点も私が前章で述べたような芸術が生産主義的な意味における生産活動ではなくむしろ消尽(消費)に関係しているということと一致する。あるいはシミュラークルと同様に消尽もまた「生産=消費」関係の外部にあるものだ。もちろんこれが同時に見田宗介のいう「至高なもの」とも関係深いものであることは既にお気付きの通りであり、それは「情報化」の問題やそれによる近代以後の日常的シミュラークル空間とも連接している。湯浅はこのことをここでは「〈消尽する〉欲望」といい、その端的な表れとしての芸術現象にかんしては、贈与霊という人類学用語を「〈純粋に贈与する〉という欲望」と換言しながら説明しているわけである。
私は本章の冒頭で、社会的に〈現実とされる次元〉が消費化(情報化)を通してシミュラークル化していくことによって、本来なら捻れたメタメリズムとして特異な平行関係を保っていた〈シミュラークルの次元〉に近接してきつつある現状について述べた。加えて、これまでのオリジナル/コピー、作者/鑑賞者などといった、複製としての模造や模擬的体験を生産しつづけてきた枠組みが無効となり、複製品がシミュラークル化を起こし始めることで〈再アウラ化〉され、非在化されてきた欲望(としての情報)がもつ〈根源性〉を恢復する徴候が〈現実とされる次元〉のボーダーに滲出しつつあるという変化について説明した。芸術とはもともと〈シミュラークルの次元〉から純粋贈与を授かる働きを内包しているものであり、生産主義社会(近代)においては、〈現実とされる次元〉に欲望の根源性を恢復するためのシーニュとして、「多くの場合はわれわれにわからぬ理由ゆえに」(レヴィ=ストロース)、芸術という「野生の思考」は保護されてきた。私はこうした無意識的な保護こそが、近代主義によるオリエントや狂気や子供にたいする疎隔(管理)政策下にあっても、なお芸術が存続しえてきた主な要因なのだとも述べてきた。しかし、一方ではこの〈欲望/シミュラークルの次元〉を理解しないがゆえに、管理型モダニズムの枠組みをもってますます文化政策やアートマネジメントを推進させていこうとする向きも認められないわけではない。そこで、三たび湯浅の記述を引用しておくことにしたい。
「文学・芸術は、私たち人間が、自分の労働や操作によって生み出されたすべての〈作品〉がついにそこへと至るようにと、実に奥深いところで願望している目的、不可能と感じつつ密かに欲望している目的をコミュニケートする。すなわちある一点において、制限されたエコノミーの回路にとどまる真面目さや重々しさをのり超え、溢れ出し、無益な輝きと戯れに至るという究極的な、しかし不可能な目的を、その〈シミュラークルの次元〉として、フィクションとメタファーとして照らし出すのだ。」
本稿では、この「不可能な目的」のことを、近代合理主義という〈目的-手段〉関係の外部にある〈目的の目的〉としての《幸福》や、非人間界への破れとして《無意識》、あるいはメタコンテクストとしての創造レベル(学習Ⅲ)や、その原因水準としての《欲望》などと言い換えてきた。そしてその働き(能力)は、リージョナルかつグローバルにいつの時代にも人類を支えてきたものである。よって私たちは現在ブランド化されたローカルな欧米型(都市型)アート・パラダイムからの出口、すなわち私たち自身への出口をここに見出すことができる。それは、芸術家だけが専有する特殊な技芸空間(テクネー)ではなく、非芸術家にもあまねく潜在化している働き(傾向)として表れはじめている。このことによって、芸術はさらにその能力を前に押し出すことが可能となっていくであろうし、芸術に対するブランド的(社会的)価値を超えた見方もやっと可能となっていくであろう【註3】。
それは芸術に対して狂気のレッテルが貼られたり、逆に奇妙に文化的権威を表象されたりするような諸々の誤解から、芸術を解き放つ社会意識の変化であり、非合理なる芸術に対する投射的理解(管理)やそのオリジナリティ(偶像性)に対する羨望としてのマネジメントから出て、新たな精神過程に踏み込んでいくための重要な条件でもある。つまり、剰余や残余としてしかそれを位置付けることのできなかったコンテクストによって、芸術がロマン化されたり、たんに〈文化の象徴〉として消費されてきた段階から、芸術という資質のもつ〈根源的な〉消尽性を通して人類が実現してきたものや実現しようとしているものについて逍遥する位相に拓かれること。それはもとより主体にとっては不可能な目的であるが、愛の不可能性によって〈愛〉という働き(資質)そのものが決して去勢されることはないように、それは能力として残存しつづけているものである。つまりそれは私が私であることを不可能とする位相に他ならない。そう、シミュラークルの次元とは〈愛〉に瓜二つなのである。
【註1】グレゴリー・ベイトソン『天使のおそれ 聖なるもののエピステモロジー』星川淳 他訳 青土社(1988)
【註2】湯浅博雄『バタイユ 消尽』講談社学術文庫(2006)
【註3】中島智「シミュラークル化する動物たち」(「三沢厚彦 アニマルズ+PLUS」レヴュー)『美術手帖 2007.6』