再魔術化するアート
― 〈技芸〉の不可知性と遍在性についての冗長なエッセイ ―

中島 智(武蔵野美術大学/芸術人類学)


-目次-
序   一輪の野花を見立てるということ
1章 〈近代〉に仕組まれた非合理性
2章  再-魔術的芸術の視座
3章  society・外部・〈動物化〉
4章  情報化社会における〈欲望〉
5章  シミュラークルの次元
結び  Inner-formationの風景


結び  Inner-formationの風景


 共感の作法から始まり、インフォメーションによる変容を経て、〈愛の次元〉へと到る本稿の流れは、一見すると奇妙な美術史に思われる向きもあるだろう。もちろんこれは80年代からアートのシミュラークル化を探求し、その後のアフリカ修行によって自らの美術パラダイムをメタコンテクスト化せざるをえなくなった一人の画家の独白でしかない。
 再魔術化、臨生、技芸(生成変化)、愛。それらは〈シミュラークルとしてしか生きられない〉実在、つまり〈欲望〉そのものを生きることの不可能性をその近接性において覚知する契機であり、そのボーダーである。それは社会的関係が生み出す主体幻想のなかで普段は隠滅されているものである。〈欲望〉への裂け目、エコノミーや記号が生み出す対称性構造の外部にある純粋贈与、限定合理性が絶えず疎隔しようとしてきた魔術的なものに近接することがなければ気づかれにくいけれども、既に誰しもが経験している働き。特に技芸世界においては、そういった〈他者〉的な実在と出会うための自己変容型の認知技術が伝えられてきた。しかしながら〈他者〉とは、決して主体を保ったままでは生きることのできない実在なのである。そこに自己(世界)のシミュラークル化が発生してくる。
 おそらくこうした論旨は、日常世界から〈徴候〉を読む感性の持ち主か、自己変容型の認識作法を体得されている人々にしかどうしてもストレートには通じにくいものであろう。だが繰り返すが、誰しもがそこを基底にしているのである。本稿でも触れた中井久夫は、精神科医師を志す学生たちに対して「始めにきた患者と自分とが何が同じで何が違うのか、よく見なさい、次に患者がきたら前の患者と自分とその患者がどう同じでどう違うのか、よく見なさい」といった話しをしてきたらしい。これが「現場」に臨むということである。あらかじめ仮設されたフレーム(病名)をもって個々を観察したり、自らを棚に上げた客観性を幻想したりするような認識作法の虚構性と暴力性について充分注意する必要がある。つまり、演繹法は経済的で合理的な方法ではあるかもしれないけれども、そこでは〈他者〉はもとより、もっとも根源的なものが非在化されてしまうというわけなのである。

「明白な内容と潜在的内容、抑圧するものと抑圧されるもの、という区別に代えて、私たちは無意識の二つの極を定義する。欲望的分裂機械とオイディプス的パラノイア装置、欲望を接続するものと抑制するものである。」(『アンチ・オイディプス』)

 ここで私自身の話を少し述べておきたい。私や私の世代にとっては、機械工業的なレディメイドやシミュラークル、ポップカルチャーなどはすでに表層的な現象ではなく、原体験(原風景)に組み込まれてさえいるような深層的な実在である。つまり表面的なコピーの反復がその大量消費性において「らしさ」というレベルを通り抜けてシミュラークル化を起こしてしまうのである。これはすでに述べた「社会」概念が民俗的(生理的)な世間表象をまといながら定着していくプロセスや効果とも相似したものであろう。すなわち、ポップで公共的なものが社会化されえない裂け目(欲望)のレベルを通して個別に無意識化され、神話化されていくインナー・フォーメーションのような働きが起きるのである。
 そこで私自身のなかで魔術的なプリンティングとして残存(シミュラークル化)している原風景(工場風景など)は、イメージの遅延において典型化されている原風景(田園風景など)とのあいだに不協和を生じていく。その神話素材とは、例えば「鉄腕アトム」のような機械工学的オブジェの有機化作用であったり、一方では人為性への傲りに警句を発するかのようにガイアの傷口から化生する怪獣たちの特撮ドラマであったりするのだが、もちろんこれはファミコン世代においては別のソフト(物語)が担っているものであろう。つまり、神話化作用の対象が自然であっても機械であっても、あるいは特定のポップカルチャーであっても、その作用そのものには変わりがないのである。というのは、そもそも記憶というものが、神話や原体験を含めてつねにメタモルフォーゼしつづけることで生きているということがある。アメリカ型の個人主義においては、このメタモルフォーゼにおいて家庭や両親が次第に「悪い記憶」の化身として偶像化(象徴化)されやすいという問題も起きているが、もとより原体験とは記憶のなかの「劇中劇」のようなものであって、〈マスカルチャーの原体験化〉という作用においては、それ自体の二重の虚構性と共有性において極端な偶像化に陥ることなくシミュラークル化されていきやすいものだ。こうした経験から鑑みるとき、かのシミュラークルの次元は神話的空間とも近接した資質(傾向)をもつと感じざるをえないというわけなのである。
 それは現実とされる次元のすぐ隣で、生成変化を起こしつづけている神話的な貯蔵空間という言い方もできるものだ。私は拙著(『芸術人類学講義』)【註1】で、こうした身辺の日常世界のなかにシミュラークル化された独自の記憶を滲出させる資質(傾向)を表したアートを「私美術(i-art)」と名付けて考えてみたことがある。とはいえ、私は自己の問題が世界の問題であるかのように自己中心化していく近代型知識人的な言説空間については懐疑的であることを述べておきたい。ここで私が例示したいのは、自己の問題はすでに他者が用意した問題であるというシミュラークル的な連接化において世界とコミュニケートしていく働きにほかならない。そしてこれは個別的実在であることと矛盾しない。なぜなら、それは所有(意識的)レベルにおいては個別ではないし、そういった表層面においては人間は画一的であると言えるものなのだが、深層的な記憶というものはポップなツールを介した場合でさえ極めて個性的なものだからである。すなわち、それが「欲望を接続する」仕方なのである。
 ではここで前稿とも直接リンクする問題として、再び神話空間について簡単に触れておくことにしよう。
 
「今日、ふたたびおもむろに高まってきた神話のふくむ野性的な未分化なものに対する関心は、論理的思考と異なるその展開軸、人間と人間ならざるもの、存在と非存在とを区別しないことの多いその認識方式などに対する従来の軽蔑を、行き過ぎと考えることと深くかかわっており、一連の、〈近代〉を問い直し、人間を原初的な、根源的なところでとらえ直そうとする、時代をあげての動きの一角というべきでしょう。」【註2】

 益田勝実がこれを書いた時代は、まさに経済学で「消費者」という概念が利潤のキーとなり、マスメディアによって〈社会的欲望〉すなわち短絡な性格をもつとイメージされる〈動物的欲求〉の変異体が、本格的に再生産され始めた頃である。奇しくも同時期にM・エリアーデもまた、当時のオカルトブームについて「これらすべては同一の根源的衝動と結びついている。すなわち、両親や祖父母たちの意味の世界を乗り越え、失われた『始源』の意味と至福とを回復せんとする衝動であり、それ故に、世界における新たな創造的存在様式を再発見したいという希望である」(『オカルティズム・魔術・文化流行』)と述べている。だが、益田が先の論文を書いたのは、オカルティズム、正確にいえば政治的オカルティズム(愛国政策の再燃)に抗するためであった。ともあれ、益田やエリアーデがともに述べているのは「行きすぎ」た脱魔術化によって失われた「根源」や「始源」の回復である。確かにこの時代の特撮モノには、すでに述べたような抑圧された非合理性のデーモニアックな示現があり、それをヒーローが殺害する光景にはそれ自体に不条理なる余韻が演出されていたものだ。さてここで益田は、神話的思考とは「自分のいま身を置いている〈時間〉」を超えた〈超時間的世界〉における神々の行動を具体的かつ持続的に思考すること、そこに「入り込んで見てくること」であると表現している。そしてそこで不可欠となるのは「〈見る〉眼がはらむ構想力、追跡展開力」であって、「わたしたちが神話の問題を考えるときには、伝承ということを中心に考えてきていますが、しかしそのまえに創造力のことを思うべきです」と述べている。
 〈時間を超えた〉感覚・世界については神話研究者なら共通に認識しているものである。実は芸術家の多くもまたこうした感覚を生きているものなのである。例えば、古い新しいといった歴史感覚はたんに「自分のいま身を置いている〈時間〉」であるところの数十年単位についての感覚と不可分であることが殆んどであって、あるいは百年千年単位以上に遡る対象についてはすでに〈古く〉感じないことが多いのである。要するに〈古さ〉とは「身を置いている〈時間〉」と共通する歴史コンテクスト内の対象にたいする(多分に自己嫌悪や敵意を伴った)表象作用にすぎず、寺山修司が「新しさとは、忘れていたものを憶い出すこと」と述べた所以なのである。また益田が「伝承」でなく「創造力」なのだと述べた所以は、一般に伝承というものが先行するオリジナルの模倣としてしか理解されていないからであり、ある能力(傾向)を遺伝していくダイナミックな生成変化(精神過程)をそこに〈見る〉眼は稀だからなのである。だが、その眼こそが情報への「追跡展開力」であり、その方法としての「創造力」への移入なのである。
 こうした神話空間への移入によって、「〈近代〉を問い直し」、「創造的存在様式を再発見」しようとする試みもまた再魔術化という「時代をあげての動きの一角」である。バタイユの「至高性」もエリアーデの「宗教体験」も同様に人類学的視座において会得されたものである。例えばエリアーデの場合は、その視座においてジェイムズ・ジョイスの『ユリシーズ』とオーストラリア原住民の神話との間に「驚くべき構造上の類似」を見い出し、オーストラリア原住民とプラトンとの間にも「極めて著しい類似」を看取している。それはまさに西欧型のクロノロジカルな〈時間〉を超えたムネモシュネへの眼差しなのである。彼は〈近代〉がフラットに表象化した空間とは対照的な、民俗的空間(生きられた空間)について次のように述べている。

「空間の非物質性という宗教体験は、世界の創設に匹敵する原初的体験である。なぜなら、空間に生じた断絶がありとあらゆる将来の方向づけを決定する固定点と中心軸を啓示し、それによって世界が構成されることを可能とするからである。聖なるものが何らかのヒエロファニーにおいて顕現する際には、空間の均質性に断絶が生ずるばかりでなく、空虚に広がった非実在に対して絶対的実在が啓示される。」【註3】

 宗教体験の研究に没頭したバタイユやエリアーデが、同時に文学作品の執筆に向かったのは決して偶然ではない。宗教や芸術がもっとも先鋭的にシミュラークルの次元に通ずるものだったからである。そして民俗世界にはもともと概念的な均質性に裂け目をもたらす圧倒的な外部がつねに顕現しつづけているものなのである。ミシェル・レリスもそうしたアフリカ体験において「論理的に考えることは人間として不自然な態度を強いられる」と述べている。そこで改めて、詩や文学や神話という思考形態がもつ〈自然〉に目覚めるというわけである。とはいえ、そこでは益田が述べるように〈見る眼〉が求められるものだ。しかし、それは実際のところ、直接神々の世界に「入り込んで見てくること」ではなく、見える世界を通して見えないものを〈見る眼〉なのである。すなわち神話とは、日常世界に持続(残存)している見えない次元(シミュラークルの次元)への通路(感覚)を開き、そこから贈与されるものを顕在化させるための表現様式なのである。つまり圧倒的な他者(自然)によって生じる生活空間の非均質性(断裂)と、理解を超えた〈欲望〉の他者性(欲望とはつねに他者の欲望であるといったジラール的な社会的欲望ではない)によって生じる裂け目(無意識)とが、パラレルに連動(転移)することによってできているのが神話なのである。

 「そろそろ、コペルニクス以来神話の仮面を剥ぐ方向にばかり進んできた流れを逆転して、これまで脇にのけられてきた宗教の多くの認識論的要素を拾い上げはじめる時期である」と述べるベイトソンは、神話(悲劇)について、そのテーマであるアナンケ〈ananke;必然性の連鎖的展開〉という神々や登場人物たちを超えた非人格的なものを〈力〉と呼び、「宇宙の構造におけるバイアスないし歪みである」と分析している。つまり本当の意味で宗教性を帯びたものはその〈力〉のなかに含み込まれているというのである。こういう観点から彼は「神々とはせいぜい、こうしたより神秘的な諸原理の、眼に見えはしないが表層的なシンボル」にすぎないといい、また「神話編纂者たちがパンテオンに飾り上げた多くの物語はむしろ宗教からの逸脱だった」とさえ述べている。確かに神話研究や宗教研究、そして芸術研究においても表層的なシンボル(様式)や編纂者たちの物語(歴史)のレベルに留まる傾向は強く、その本当のテーマである宇宙構造に内包された「歪み」としての〈力〉、それとパラレルに連動するものとしての欲望の「症状」としての〈裂け目〉そのものに言及する例はいまだ殆んど皆無と言ってもいい。
 ベイトソンが人類学者として現地調査をしたバリ島では、神々には(ランダとバロンを除いて)ただ名前、方位、色、暦上の日といった性質しか与えられていないのだが、それらのシンボルを通して本当のテーマである〈力〉への共感を実現するためには、たんに「仮面を剥ぐ方向」(=脱魔術化)をもつ学問的慣習から再びエクスタシス(外に-出で立つ)することが必要となってくる。それは換言すればインフォメーションをインナー・フォーメーション化していくことなのである。すなわち、それは学習された欲望(=欲求)から〈欲望〉を解放することであり、そのフォーメーション(組成)とは個人が本当の意味での自由を獲得するためのメディアであると同時に、他者に共感(転移)しうる前=記号的なメディアにもなる。このようなメディアを介さない〈自分探し〉はたんなる記号操作に限定された社会的欲望に留まるものであるし、それを介さない〈自由〉はたんなる概念レベルを越えないものだ。つまり神話化作用やインナーフォーメーション化(再魔術化)によって、私たちはやっと近代が抑圧しつつ幻想してきた《幸福学》や《愛の次元》に参入することができるのである。近代において芸術はその〈シーニュ〉として求められてきた。しかしながら、今後はさらにその核心にある〈力〉が示現されていくことになるであろう。
 様々な領域を横断し、そこに共通した精神過程を見出していったベイトソンが、最終的に辿りついたのは芸術という謎であった。しかし、その探究は、惜しくも彼の死によって中断されてしまっている。不親切なスケッチにすぎない拙稿が、その中断された謎解きを少しでも喚起でき、またその問いを誰かに連繋する契機となれれば甚幸である。最後に、彼の愛娘であるメアリー・キャサリン・ベイトソンの追想をここに記して、ひとまず筆を擱くことにしよう。

「グレゴリーは、宗教とともに芸術をクレアトゥーラ的な思考がとくに重視される経験領域だと考えていた。ひとつの芸術作品は、ホラ貝やカニや人間のからだと同じく精神過程の結果である。あらゆる芸術作品はそれぞれが複雑な内部関係に立脚したものであり、『結びあわせるパターン』とクレアトゥーラの本質とを理解するうえで役立つ手本のひとつとみなすことができる。『バラの花を生みだすにはたっぷりの思考が必要だった』。美的統一性とシステミックな統合や全体論的な知覚とはほんの紙一重である。」【註4】

(07年4月記す)


【註1】前出『文化のなかの野性』 または、中島智「〈 i-art 〉論 現代アートの民俗」武蔵野美術大学研究紀要No.34(2002)
【註2】益田勝実「神異の幻想」〈初出1972〉『益田勝実の仕事4』筑摩書房(2006)
【註3】ミルチア・エリアーデ『オカルティズム・魔術・文化流行』池上良正 他訳 未来社(1978)
【註4】前出『天使のおそれ 聖なるもののエピステモロジー』所収

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