complex
mailto「現場」研究会について今月の「現場」研究会
archiveart scenepress reviewart reviewessaygenbaken reporttop
2010年5月

「岡本太郎の絵画」展(2009年)について――仲野泰生氏(川崎市岡本太郎美術館学芸員)を迎えて  


5月の「現場」研究会はゲストに仲野泰生氏をお招きし、「「岡本太郎の絵画」展(2009年)について」をテーマにお話をお伺いました。
仲野泰生氏は川崎市岡本太郎美術館開館10周年記念で開催された「岡本太郎の絵画」展を企画されました。展示順路をなぞりながら、パリ時代から晩年の目のシリーズに到るまでの作品をスライド鑑賞も交えながら解説して下さいました。当時の時代背景や交流関係、技法や思想、と多角的かつ相対的に岡本太郎を語って下さる事で、聞く側も、岡本太郎の人間的魅力や、作品の内容の深さへ迫る事が出来たと思います。3時間半の長丁場を持っても、語り尽くせない岡本太郎像を仲野さんは熱意をもって伝えて下さいました。充実した研究会になりました。


●2010年5月22日(土)「現場」研究会討議記録

テーマ:「岡本太郎の絵画」展(2009年)について
ゲスト:仲野泰生

「岡本太郎の絵画」展 企画意図
 岡本太郎が亡くなってから、公私ともにパートナーだった岡本敏子さんは記念館と財団を作りました。その翌年1999年、川崎市岡本太郎美術館は開館します。最初の展覧会は、岡本太郎芸術の多義性を見せることを目的とした「多面体・岡本太郎」展でした。それから10年、岡本太郎は再評価されました。このたび岡本芸術の原点となる絵画を見せたいと思い、約1年間の準備期間を経て本展覧会「岡本太郎の絵画」を開催しました。ここで私は、時間軸の中で岡本太郎絵画を相対的に位置づける試みとして、彼と同時代の作家の作品を並べました。今回はスライドを見ながら「仮面」などいくつかの言葉をキーワードとして、岡本の作品とモチーフの関係性について発表したいと思います。

「1960年以降の岡本太郎と仮面」と題して
1パリ時代の岡本太郎絵画
 パリ時代の絵画は東京の空襲で燃えてしまったので、現存するパリ時代の絵画は戦後に再制作されたものです。岡本太郎は東京美術学校の入学を目指して、美術の予備校でデッサン等の基礎を積んだことが考えられます。美術学校を中退後、彼はパリに留学しました。その後、欧州の他の地域からパリに出て来る14歳くらいの子たちの寄宿舎(リセ)に住み、そこでパリの生活習慣とフランス語を身につけました。その経験がその後彼の活動の土壌の一つになったと思われます。P・ピカソの作品と衝撃的な出会い後、抽象芸術の運動を行っていたアプストラクシオン・クレアシオン(抽象・創造)に入りました。
 他の日本人留学生がパリジェンヌや風景などを描いていたのに対し、岡本太郎はキャンバスという平面に「布」という平面性の高いモチーフを描き、絵画のイリュージョンの可能性を自らの課題としました。その課題を展開する上で、パルパブル(手で掴めるような)な表現の具現化として「リボン」のモチーフが出てきます。《空間》(1933年/54年再制作)における、古典技法で何十回も重ね塗りされた背景や、《傷ましき腕》(1936年/1949年再制作)の腕の「ストライプ」に見られるような絵画的装飾性は晩年まで続く彼の絵画の造形的要素となります。その後、抽象表現に疑問を持ち、アプストラクシオン・クレアシオン(抽象・創造)を脱退します。そして、クルト・セリグマン等と「新具体主義(ネオ・コンクレティスム)」を立ち上げます。おもしろいことに、セリグマンはアプストラクシオン・クレアシオン所属時、「旗」などのモチーフをよく用いますが、このモチーフは岡本に近いものです。当時、岡本太郎だけでなく何人かの画家たちが同じような問題を感じていたのでしょう。セリグマンはその後シュルレアリスムに向かいましたが、岡本太郎は、アプストラクシオン・クレアシオン脱退後、しばらく絵自体から離れ学問の道を歩みます。
 岡本太郎の絵画は最終的には彼の思想(世界観)そのものになると私は考えています。岡本の思想の土台として、ジョルジュ・バタイユやマルセル・モースらの社会学や民族学との出会いがあります。特に、1937年〜39年頃はバタイユと深い交流を持ち、バタイユによって結成された、アセファル(無頭人)という名の秘密結社に入ります。秘密結社だから秘密のはずなのですが、最近ではアセファルの活動がしだいに明らかになってきています。このアセファルモチーフは彼の絵画にも登場します(後述します)。その後、岡本太郎は絵画の平面性に取り組んで進むうちに、人体という次のモチーフを見つけました。しかし戦争に徴兵され、その課題に十分に取り組むことはできませんでした。

2「森の掟」と「光琳論」—1950年代の岡本太郎絵画
 千葉成夫さんは「岡本太郎の絵画」展に「岡本太郎は画家である。」というシンプルで深く、またおもしろい文章を書いて下さいました。岡本太郎の70、80年代以降の絵画に焦点をあて、当時の絵画の問題と岡本太郎の絵画を合わせて書いてくれました。岡本の50年代の絵は彼の対極主義の文脈で描かれています。それに対して、60年代以降の絵は、絵画・美術の文脈では解き得ない問題を内包している絵かもしれません。千葉成夫さんは、そこに一歩踏み込んで書いて下さいました。ここでは、千葉さんの考えもふまえつつ私の言葉でお話していきたいと思います。
 兵役から帰還した岡本太郎は、讀賣新聞の文化部記者・海藤日出男の依頼を受けてパリ時代の作品の再制作(展示)を行いました。その後の1947年に《夜》という作品を二科展に出品します。この絵は実は岡本かの子の小説(『生々流転』1939年)の表紙となっていた絵とまったく同じ構図の絵なのです。そのことから、モチーフはパリ時代にあることがわかります。また、これは、アセファルの儀式の情景をテーマにした絵なのです。アセファルは表面的には雑誌を出版する活動をしていましたが、裏では秘密結社の活動を行っていました。アセファルは、森の中で生け贄を捧げる儀式を行なうなど、キリスト教以前の原宗教を再現する試みを行っていました。この絵はその儀式を表していると考えられます。
 ところでパリ時代の頃から、岡本太郎の絵(《空間》シリーズなど)には二つの極がぶつかり合う「対極主義」的要素が現れてきます。戦後まもなくして、岡本太郎は花田清輝の『錯乱の論理』を読み、自身の「対極主義」と近い考えを持っていた人がいることに感動し、花田清輝と共に、アヴァンギャルドの総合的な芸術運動を行うべく「夜の会」を結成します。
 また、この「対極主義」の頃には、モチーフから読み解けるテーマ性と、絵画の平面性における造形など絵画の問題への取り組みが更に複雑に展開し始めています。《重工業》(1949年)は二つの対立する極をもち「対極主義」が作品として具現化された代表作といえるでしょう。この絵は岡本が、戦後美術においてゆるぎない人気・ポジションを得るきっかけとなりました。当時、労働運動が盛んになり、岡本太郎も労働組合の関係で講演や絵の指導を行っていました。そこで得たイメージが作品に反映されていると思われます。《森の掟》(1950年)も新聞の社会欄などで取り上げられ、世相を映し出した作品として評価されました。しかし、岡本自身は《重工業》が(意味として)社会的なものとしてのみ読まれてしまったので、《森の掟》をそのような社会的意味を持たないものとして「無意味をぶつけた」と言っています。
岡本太郎は「対極主義」について、「光琳論」で次のように書きました。「光琳の絵画の『非情美』を支えるものは光琳の内にある市民的即物主義と貴族的抽象性の激しい対立の美である」。これは、岡本太郎自身の「対極主義」的な解釈といえるでしょう。「岡本太郎の絵画」展で《森の掟》と光琳の《紅白屏風》のレプリカを借りてきて隣に並べて見ると、構図などの類似点が浮き上がると同時に「絵画そのものの問題」が見えてきます。
 この「対極主義」について評論家の捉え方も挙げておきたいと思います。針生一郎は、「対極主義」の背景に近代漫画の先駆者であった現実的な父一平と、ロマン主義者の母かの子が対極的な存在であったことを指摘しています。また、瀧口修造は、岡本を「内部」「外部」における両方の現実をレアリスムの手法ではなく、ルポルタージュ的な絵画で行った先駆的な人物と評しています。
 《変身》(1953年)はパリ時代の《空間》と同じモチーフ(布と金属の棒)を用いています。しかしこの20年の間は、岡本にとって、モースの民族学を学び、日本へ帰国しまた、戦争を体験し、この《変身》は、日本の現実とぶつかって出来た新しい《空間》という作品と言えるでしょう。中心点を二つ持つ対極的な構図、黒い輪郭線、ストロークなどがわかり易く見て取れる画面になっています。
 一方で、1950年代から岡本太郎は、大衆にむけパブリックな場所に自分の作品を設置しはじめます。その素材としてモザイク(壁画)を選びました。これは後に、《太陽の塔》(1970年)に代表されるモニュメンタルな作品につながっていきます。岡本は表現形式として絵画とパブリックアートを使い分けているのではないでしょうか。「絵画」と「壁画」は、質の異なる絵画表現と捉えていたに違いないのです。
 しかし、両方は共通してモースの影響が強く見受けられるのではないでしょうか。岡本の晩年の絵画や《太陽の塔》の地下展示室における「民族学博物館構想」が、モースに学んだミュゼ・ド・ロムでの経験から生まれたのかもしれません。
 また岡本太郎は、絵画をマスクとして捉えていたように思えます。《マスク》(1959年)《裂かれた顔》(1960年)で作品は大きく変容します。パリ留学時代から岡本太郎は自己の「内部」と「外部」、ヨーロッパと日本に引き裂かれている、あるいは、近代と現代に「引き裂かれている」という意識をもっており、作品にもそれは通底しています。
しかし、岡本太郎は60年代から「芸術は呪術である」と言い始め、よりとらえがたい絵画を描き始めました。岡本は「日本再発見」の旅として秋田や沖縄などをフィールドワークすることで、日本に対する考えが深まり、モースの教えが自分の内部に広がったのでしょう。そして描かれたモチーフが「対極主義」から一気に変わっていきます。更に、1961年から、ストロークが強調されたカリグラフィックで梵字のような作品を沢山描くようになります。そして文字の呪術性を表現したような絵画になります。技法の上では、黒は油絵具のアイボリブラックと漆を並用して使い、白は油絵具のジンクホワイトと胡粉を並用して使用しています。これは「黒」と「白」に深いニュアンスをもたらすためでしょう。瀧口修造さんは、岡本太郎絵画の思想と表現の結びつきを重要と捉え、当時流行していたアンフォルメル絵画のカリグラフィックなものとの相違を強調しています。白川静が「漢字」に対して呪術性を強調した考え方に、つながる絵画ともいえるのではないでしょうか。

3「仮面とは表面である」(小林康雄)
 仮面をつけると、仮面をつけた自分と別のものになる自分がいることに気がつきます。人は表面で捉えるので、仮面をつけた自分は矛盾を孕んだ二重性を持つことになります。仮面について、岡本太郎はある雑誌で、今日の芸術は現代の問題の真剣さを回避していると批判した上で、「現代と真に効果的に対決すれば抽象的な造形性を手段としながらも具体的なマスクが出てこないはずはない」と述べています。そして、岡本は(制作を通じて)「新しい世界に呪術的に働きかける戦慄的なマスクを創造しようとしているのだ」とまとめています。しかし、そう述べた後、カリグラフィックな絵を描き、また10年を経て、70年に入ってから、「眼」のある顔の絵画に変容していきます。
 このように仮面から絵画への流れを見ると、結局、絵画の平面性などよりも呪術的な形式を持つものとして絵画を捉えようとしていたように思えます。そこで、私たちは岡本太郎の絵画に対して1950年代の対極主義的な絵画だけを見ていたのではないかと疑問を持たざるを得ません。絵画の文脈の上で仮面的な要素を位置づけないと、岡本太郎の絵画についてきちんとした見方ができないのではないでしょうか。私は、「仮面を作るのではなく、仮面としての絵を表現したのが80年代の眼の絵画だ」と思っています。仮面の眼は穴です。80年代の岡本絵画における眼も、仮面の眼、つまり穴として捉えることができないでしょうか。そして、ただの穴ではなく二重性の穴、眼であり、穴であるものとして。
 最後に、岡本太郎は「芸術は呪術である。芸術は精神の鏡である。芸術は見るものの精神を映し出す鏡にならなくてはいけない」と言っています、というところで私の話を終わりにしたいと思います。

質疑応答
質問1:仲野さんは、岡本太郎をアヴァンギャルド芸術として美術館で伝えることができると考えていますか?

仲野:アヴァンギャルド芸術を美術(館)という制度の中で見せることは矛盾していると思います。でもあえて、岡本太郎を通じて美術という枠や制度を逸脱していくような美術館活動(展覧会など)を行いながら、岡本太郎のやろうとしたものを探っていきたいと思っています。